ガラージュのクラウドファンディングを開始します。

https://camp-fire.jp/projects/view/341711


まさかこれをやることになるとは思っていませんでした。スマートフォン用のガラージュ、しかも完全版の制作です。

ガラージュがとんでもない価格で取引されていることはもちろん、このゲームをプレイしたいと思っている方が、国内問わずそれなりに存在するということは知っていましたが、このゲームをリメイクとまでは行かずとも、それなりの手間を掛けて納得のいくクオリティでリリースするということは、まず不可能であろうと考えていました。

私は過去の作品に対してはかなり淡白なので、一度終わらせたもの、その上、手を入れることが不可能なものに対しては、全て成り行きに任せればよい、ぐらいにしか思っていません。なぜならこの先変化する可能性もなく、プレイすることも出来ないような作品をいくら広めても意味がないぐらいに考えていましたから。

ガラージュはあくまでもゲームですので、プレイ出来ないゲームにゲームとしての価値などありません。それなのに、このところTwitter上でやたらとガラージュ関連のツイートをリツイートしたり設定画を上げたりしているのを見て不審に思っていた人もそれなりに居たのではないかと思います。

開発に至った経緯はクラウドファンディングのページにも記してある通りです。SmokymonkeySが「俺たちが持ちかければあいつも動くだろ」という算段でやってきて、まんまとそれに乗っかったわけです。

ですが、ガラージュに関してはやり残したというか、やり切れなかったことがかなりの分量であったというのも事実です。以前にTwitter上で「ガラージュをリリースしたあとに、あの世界から2、3年抜けられなくて苦しんだ」と書きましたが、その理由の半分以上はやり切れなかった事がずっと頭の中に去来して離れなかったからです。

シナリオに於いては、書ききることの出来なかったキャラクター同士の関係性やそれぞれの思い、一見不条理とも思える行動の理由、それらが明確になることによる新しい展開。グラフィックに於いては、自分の未熟さによるアートディレクションの不備、イメージを詳細に定義できていなかった甘さ、デジタルグラフィックに対する理解の不足。そういったものがゲームのリリース後に留まることなく押し寄せてきて翻弄される日々でした。

それらの成し遂げられることの無かった課題を、今回の完全版において実現できるなら、これはやらねばなるまい、そう思えたわけです。


しかしガラージュは色々な意味で「きわどい」作品です。特に現代のポリティカルコレクトネスからすると不適切であるとされる表現も含まれているかもしれません。この点に関しては、今回の開発を決意するに当たっての最初の気がかりでした。ガラージュの世界を見て怒りを感じる人、見たくないものを見せられたと感じる人、傷つく人、そのような人々からの非難、批判が容易に想像できたからです。この作品は今のこの時代に出せるものなのか?出しても良いものなのか?それを自分に問う必要がありました。

確かにガラージュの表現には露悪的な部分もありますし、あえて差別的な関係性を表現している部分もあります。しかし作品そのものはそれを良しとしているわけではありません。それはゲーム内でも語られている通り、いかがわしく間違った世界です。そしてそのいかがわしく間違った世界は、ガラージュという治療装置にかけられた被験者の精神の反映です。

さらにこの被験者は、その精神を病んでいます。過去に取り返しのつかないことをし、終わってしまったその過去を、治療装置であるガラージュによってもう一度経験するようなことをするわけです。プレイヤーが体験するのはそのような被験者の精神世界の体験です。そこでは被験者がその内に持っている憎悪、偏見、差別、暴力、嫉妬、恐怖、欲望、そういったものが表現されている必要があるのです。そしてプレイヤーはその世界を終わらせるためにゲームをプレイします。

そのような世界はほとんどの人々にとっては見たくない世界かもしれません。それはある意味当然のことです。なぜならこの被験者は社会の外側に出てしまった人間だからです。

社会は社会の外側にはじかれる事を恐れる人間によって成立しています。常識も承認欲求もポリティカルコレクトネスも社会の内側に向いたベクトルです。しかし本当に社会を社会足らしめているのは、社会の外側だと私は考えています。

社会の外側とはつまり社会から排除されたものです。社会から排除され、社会によって禁止されたものが社会の輪郭を作っています。それは社会の内側から見れば忌み嫌われるものそのものです。非難されるべき対象そのものです。しかしその忌み嫌われ、非難される対象無しには社会は成立できない。

下品な例えをします。ウンコを漏らすことは非社会的な行為です。正確に言えばトイレ以外でウンコをすることは非社会的な行為です。しかし誰もがトイレ以外でウンコをする生物としてこの世に生を受けます。そしてトイレ以外でウンコをしないように厳しくしつけられるわけです。トイレ以外でウンコをしないという社会は、トイレ以外のウンコを禁止することによって成立するわけです。そこから先のルール、男女のトイレを分けるとか、トイレットペーパーの先を三角に折るとか、ウンコの音か聞こえないようにするとか、そういったことは全て、トイレ以外のウンコの禁止を前提とした、些細な決まりに過ぎません。

ここで言いたいことは、禁止によって社会は作られるが、禁止されたものは無くなる訳ではなく存在し続けるということです。どんなに忌み嫌われようとも、どんなに重い罰が下されようとも、それらは存在し続けるし、それらの存在無しには社会もまた存在しない。つまり社会は、社会の外側を下部構造とした上部構造に過ぎないということです。しかしだからと言って、わざわざ不快な社会の外側を表現しなくてもいいのに、せっかく上手く回るように社会が出来ているんだから、壊すようなことをするなよ、そんな声が聞こえてきます。

ですが私には社会が上手く回っているようにも見えないし、壊そうとしているわけでもありません。社会の境界は曖昧なものです。その境界は常に揺れています。特に今の時代はその揺れが激しいように思っています。ガラージュ流に言えば、カゲの力が強くなっているわけです。そのような揺れの激しい社会ではあちこちにひずみが生まれます。それは社会の再編成における必然であるように思えます。多くの人が精神を病んだり、勘違いをしたり、取り残されたり、他人を押さえ込もうとしたりしています。

例え表面的には社会に適合しているように見える人であっても、誰もが社会の外側を持っていて、その境界において葛藤している。ここまでは当たり前の事ですが、この葛藤は現代においては境界を大きく揺るがすほどに表面化している。私は今の時代をそのように認識しています。

望まずに社会の外側に飛び出してしまうこともあれば、社会の内側に留まることを強制されることによって死ぬ人もいる。そのように生きている人々にとっては社会の外側が身近なものとなります。社会の外側によって救われる人もいるでしょう。社会が牢獄であった場合にはそこから逃げることしか選択肢がなくなるからです。

ガラージュという作品は、社会の外側を賛美するための作品ではありませんが、否定もしないのです。ガラージュの中では社会の境界の曖昧さがそのままに提示されます。上手く行っているかどうかはわかりませんが、その曖昧さは意図的なものです。そしてそのような世界であるからこそ可能になることがあります。少なくとも物語の中でガラージュにかけられた被験者は、もう一度生き直すためにそのような世界とその可能性を必要としていました。

私はあの被験者が必要とした世界を出来るだけ忠実に再現しようとしました。そしてプレイヤーにもその世界の手触りを感じられるように努力しました。そうやって出来上がったのがガラージュというゲームです。

現代のような境界の揺れの激しい時代においては、ガラージュという作品が、例え多くの人に響くことは無くとも、多くの人から非難されようとも、社会の境界で葛藤している一握りの人々からは必要とされることもあるのかも知れない。そのように思えたことが、この作品に再び向き合うことを可能にしてくれました。

こうして始まったガラージュ完全版の開発には、既にひじょうに多くの時間が注ぎ込まれていますが、まだ道は半ばです。ここからゴールまでの困難な道のりを乗り切るために、このクラウドファンディングを通して支援いただけたらと考えています。よろしくお願いします。

LOVE-20という新型ウィルスが発見されたのだは、つい一年ほど前のことである。当初、不審死を遂げる老人が急増し、その死因がウィルスによるものであることが判明するまでには数百人の犠牲を必要とした。なぜなら、その犠牲者たちにはウィルス感染にありがちな症状などが全く見られず、心の空白を訴える以外の変化が見られなかったからである。当然のことながら医師たちはこれを精神疾患の一種と判断し坑鬱剤などの薬剤投与をするにとどまった。
この疾患がウィルスによるものであることが判明したのは、著名な富豪の死がきっかけであった。その死に衝撃を受けた数人の富豪達がこの原因不明の疾患に巨額の資金を投じ、優秀な研究者たちに死因を突き止めさせたのである。そこで判明したウィルスの特徴は前代未聞のものであった。
人には周知の事ながらLOVE中枢と俗称されている器官があり、この器官は人間同士のコミュニケーションにおける成果物のうち、喜びや心配、贈与などを通して他者から照射されるエネルギーによって、人体に生成される粒子、つまりLOVE粒子が貯蔵される器官であり、かつては、それが機能しなくとも生存に関与しないとして不要な器官であるとされていたものである。
LOVE-20はこのLOVE中枢に直接働きかけ、LOVE中枢の機能不全を誘発することが判明したのである。その結果、罹患者は極度な神経症的不安、虚無感、孤独感を発症し、その後自律神経系が次第に崩壊し、やがては死に至る。また通常の精神疾患と異なり、その進行は一つの例外を除いて不可逆的であり、進行のスピードもわずか数週間で死に至ると言う極めて速いものであることも判明した。治癒の可能性は唯一つ、LOVE-20への唯一の抗体である他者からのLOVEを獲得することであった。

この研究結果が発表されるやいなや、世界中に衝撃が走った。発生時期から発表までに至った期間を考慮するならば、パンデミック寸前であることは確実であったからである。まず資産に余裕のある者たちは、LOVE-20を遮断できるシェルターに篭った。またある者はLOVEを獲得するために数兆円から数億円規模の現金の配布を行った(彼らは資産以外に自分が使える駒を持っていなかったのである)。

影響は富裕層や権力者には留まらなかった。老人たちは急に優しくなり、事あるごとに孫に小遣いをあげ、食事の準備を進んで申し出、ゴミ捨てをし、なんなら公共の道路を清掃し、布団に入れば自分の言動を毎日反芻してはLOVE粒子が減るような行いをしなかったかを反省するようになった。

しかしLOVE-20の狡猾さは予想をはるかに超えるものであった。尊敬や憧憬による照射は無効であったし、下心や射幸心を持つ者も容赦なく切り捨てた。それが自己の延命のためである限りは、LOVE粒子の生成が起きなかったからである。物流は止まり経済は停止したが、不思議と若者への影響は極めて少ないものであった。結果、世界の老人の70%、壮年の30%、若年の5%の尊い人命が失われることとなった。

そして現在、LOVE-20は今も根絶されていないが、今は誰もそれを恐れなくなった

KINOTROPEからの依頼でオリジナルの自転車を製作しました。設計は自分、CADデータ作成はGullCraft。実製作はGullCraftと二人での作業です。去年の9月から設計を始め、12月から製作を開始したので、1年がかりのプロジェクトになりました。いわゆるフレームだけのハンドメイドではなく、サドル、ハンドル、ブレーキレバー、フェンダーなども、全て一からの手作りです。


180122-03.JPG180110-11.JPG設計の意図としては、

  1. ジオメトリはかつてロードスターと言われていた車種をお手本としています。少々見た目重視に振ってしまっているため、軽快感は多少スポイルされていますが、基本的には絶対スピードは遅くても、より少ないエネルギーで距離が稼げる自転車。

  2. デザインはクライアントの希望もあり、真鍮を多用したりしてスチームパンクな要素を盛り込んでいます。また、かつての昭和中期ぐらいまでの実用車やカスタムモーターサイクルに見られるような、徹底的な作り込みがもたらす機械としての魅力を前面に押し出すべく、あらゆるパーツデザインの統一性を重視。要はメカオタも満足できる自転車にしたかった。おかげで重量的にはかなりのものになってしまいましたが。

  3. このジオメトリから導き出されるポジションは、後に加重が寄ったアップライトなものですが、このようなポジションにありがちな前上がりなイメージを排して、スポーティに見えるようにすると共に、ハンドルをマルチポジションにするなどして、多様な路面状況や風向きでも快適に乗れることを考慮しています。

  4. デザインやパーツ選定の一つの基準は自立性です。内装11段変速のスピードハブ、前輪ハブダイナモ、メカニカルディスク、前後フェンダー、スタンドなど。こういった部分は現代社会では半分はファンタジーみたいなものですが、出来るだけ「それ自体で完結している」イメージを出したかった。とは言っても作り込みの部分で遊びすぎてしまったので、メンテナンス性は推して知るべしと言うところ。そういう意味でのプロダクトデザインとしては失格ですが、この自転車に関しては「やればここまで出来るんだぜ」ということを示したかったので、作っているうちにそっちの気持ちが勝ってしまったということです。


DSC09440.jpg完成した自転車。水平ラインを基調とした1920年代ごろのモーターサイクルデザインを意識していたりします。乗り味に関しては、昔、セキネのとても古い実用車を所有していたことがあって、20kgほどもある重い自転車なのに、乗ってみるとなんともいえない安定感があって、非常に心地よかったことに驚きを覚えたのですが、その乗り味にも共通する安定感があります。強いて言えば「真ん中に乗っている」感じです。


DSC09374.jpgDSCF2509.jpgフレームは当初ステンレスの3Dプリントでラグを製作し、特注のカーボンパイプを接着し仮組みまで行ったのですが、プリント材質起因の剛性不足が発覚したため、溶接によるアルミラグと3AL2.5Vのチタンパイプで再製作したものです。


180917-01.jpgDSC09412.jpgDSCF2608.jpg180920-01.jpgDSC09455-02.jpgワイヤリングを最大限に強調したフロント周り。使用しているケーブルアウターは日泉ケーブルから提供していただいた”ネイキッドメタルアウター”と真鍮製パイプです。大きなシフターはシマノのALFINE11用のシフターを、内部構造だけを利用して新たに製作したもの。

ハンドルはGullCraftによる手曲げアルミ溶接。パイプはかなり肉厚のものを使用しているので、剛性は十分にあります。ヘッドライト後部のアルミ製のコーンは1mmのアルミ平板からの鍛金です。朝顔タイプの真鍮ベルも製作したものです。


DSCF2591.jpg1180921-01.JPGブレーキレバーもオリジナルデザインです。バンド締めでディスクブレーキ対応のリバースレバー。


DSCF2625.jpgDXSjUfuU8AAEVwo.jpg専用にデザインした革サドル。改善点はまだ数箇所ありますが、設計時に目指した、最初から乗り心地がよく、耐久性があり、軽量な革サドルという目標に対するプロトタイプとしては、十分な役割を果たせたかと思っています。サドルだけの製作過程をまとめたTwitterMomentはこちら

シートステイはウレタンダンパーつきですが、タイヤのクッション性があまりに良すぎるので過剰装備になっているような状態。もう少し柔らかいセッティングにしたら面白いかもしれません。


DSCF2618.jpgDSCF2612.jpg必要最低限で十分な役割を果たすことを狙った前後フェンダー。GgullCraftによる叩き出しです。フェンダーステーは板厚に余裕を持たせてしっかりと剛性を出しています。


DSCF2636.jpgDSC09492.jpgボトムブラケット周り。真鍮版から切り出したクライアントロゴのついた、チェーンテンショナーつきチェーンガード。オリジナルパターンのチェーンリング。カーボンパイプで軽量化したエスゲのダブルレッグスタンドをブラケットを延長して取り付け。ペダルは三ヶ嶋のペダルをベースにプレートを手作りしています。両面フラットで足の位置が決まりやすいようにサイドストッパーをつけた昔からのデザインで、底の広いスニーカーでも踏めるように幅広に設計しています。


detail01.jpgケーブル小物各種も手作り。設計段階ではここまで詰めることができなかったので、かなり試行錯誤してまとめた部分。


detail02.jpg鍵付きのツールボックスやステーなど。


DSCF2512.jpg

DSCF2541.jpg
DSC09430.jpgこれまで自転車に関して考えてきたことを集大成的にまとめようと意気込んで製作を始めたわけですが、完成してみると逆に課題が大量に出てくるという、よくあるパターンになっています。しかしこういうことは作らないとわからないことなので、ひとまずは形に出来てよかったです。重量無視の作りこみに関してはかなり満足したので、次はこの設計をベースに10kgぐらいの自転車を作ってみたいと思ったりしますが、それは機会があればということで。

下記リンクに詳細な製作レポートなどもまとめてありますので、興味のある方はどうぞ。
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設計:Tomomi Sakuba
CAD:Gull Craft
製作:Tomomi Sakuba/GullCraft
Client:KINOTROPE
Special Thanks:NISSEN CABLE
Tomotoshi Kaiho
製作レポート1:自転車製作その1(Twitter Moment)
製作レポート2:自転車製作その2(Twitter Moment)


DSCF2500.jpg

2018nenga1000.jpg明けましておめでとうございます。観光地シリーズ第三段です。だんだん辛くなってきた。でもなかなか賑やかなのが出来たので良し。

去年はHENGEで久しぶりにそれなりの数の絵を描きましたが、今年は自転車の年です。昨年の9月あたりからずっと設計をやっているプロジェクトがありまして、これを形にします。お楽しみに。

今年もよろしくお願いします。

unnamed.jpgこの1年ほど関わっていたアプリが公開されました。
HENGE(変化:へんげ)。流行りの顔認識アプリの怖いバージョンみたいなものです。生成される画像は、目や口などのパーツごとに組み合わされるため、相当な種類のバリエーションが生成されますので、変顔自撮りのお供に、クリーチャーデザインのお供に、変身願望の実現に、ぜひ遊んでやってください。
《IOS版》

《Android版》


henge_636302239947129450.jpghenge_636305514816212860.jpghenge_636301279705439770.jpghenge_636301275423867240.jpg上のカバー画像の高解像度版


henge_cover.jpg

170807-02.jpg久々の自転車ネタです。
半年ほど前にカメラが壊れてカメラを買い換えたのですが、初めてのレンズ交換式カメラで写真を撮るのにはまってしまい、自転車に乗って写真を撮りに行ったりしていました。ところが自転車に乗っていくと、あまりにも乗り降りが激しくて、トゥクリップに足を突っ込むのが面倒だったり、スタンドが欲しくなったりで、どうしても自転車をいじりたくなってしまったのです。というわけで散策自転車を徹底させるべく、ポジションから大幅見直しとなったのでした。

まずはスタンドを装着してペダルは三ヶ嶋のSILVAN STREAMに。スタンドはフレームチューブを押しつぶすようなクランプは使用せず、接触面が大きくて軽量なクランプを削りだしています。ペダルはこれまでにもMTB用のフラットペダルやアルミ押し出し材を使った軽量ペダルを試したことはあったのですが、主に足の踏み位置が決まりにくいという理由で使うのがいやになってしまったのでした。やはりペダルシャフトと踏み面の位置にある程度の落差のあるペダルが使いやすい。


170807-01.jpg次にハンドル周り。前のアップハンドルも決して悪くはなかったのですが、120mmのステムを使ってもまだハンドルが近すぎたり、アップライトポジションの限界が低かったりで、びしっとポジションが出ていたとは言い難かった。なので思い切ってフォークをカーボンからスチールに戻してスレッドステムを導入することに。すごい重量化ですが、まあ輪行をやらなければ許容範囲です。この状態でも8Kg後半ってところです。使っているステムはルイステムとかいう商品名でとっても安くて重いやつです。そしてハンドル。NITTOのノースロードバーですが、現行品ではないやつで、幅が少し狭くて260gとそこそこ軽いものです。これにTEKTROのFL750というブレーキレバーを組み合わせています。


170807-05.jpgここまで決まったところで試乗を繰り返してポジション出し。500kmぐらい走ったでしょうか。いろいろ試しましたが、サドルは8mmバック、3mm下げ、ちょい前上がり、ハンドルは現状の高さが前後2:8ぐらいの荷重分布です。ここからさらに2~3センチほどハンドルを上げると完全にハンドルから荷重が抜けるところまで行きますが、これはかえって腰に良くないことがわかったので、ちょっと前に加重を残すぐらいが一番楽でした。しかし、前回のほぼ水平ポジションと比べて、あまりの違いに驚くやら面白いやら。

決して良いことばかりではなく、マイナス面もあります。まず使用しているフレームに対して明らかにテールヘビーです。最初に驚いたのはあまりにも後輪の接地面の情報がダイレクトに来るのでホイールが歪んだのかと思ったぐらい。次にこれまで痛くもなんともなかったサドルが急に乗り心地の悪いサドルに変化してしまった。前者はもう慣れましたが、サドルはアルミ製なので強引に曲げ直しました。フレーム変えろという意見はごもっともですが、まあやってみたかったんです。だいたいこのポジションにちょうどいい軽いフレームなんてまず手に入らないですから。

で、良い面。これは楽ちんの一言に尽きます。長距離も何の問題もなく、疲労は明らかに少ない。ただしドロップハンドルなどのポジションに比べるとアベレージは落ちます。これは上げられないという意味ではなくて、そのように走ったほうが気持ちがいいので結果的にアベレージが下がるということです。でも写真を撮ったり路地に入ったり寄り道をしたりするにはかえって好都合です。見たいものが良く見える、立ち止まりたいときに躊躇なく立ち止まれる、という性能が欲しかったわけですから。

でもサドルは、ここまで荷重が掛かるようになると革サドルにしたくなる。しかしこのポジションが出せる市販サドルはありません。なので欲しければ作るしかない。実は革サドルはすでにオリジナルのを作っていたりします。


150128.JPGこれは3年ほど前に作ったTimrck用の自転車です。ワンオフのキャリアにチェーンガードにフロントフェンダーにライトステーに革サドル。友人からはデコチャリとか言われていますが、いやいや、そんなことないっしょ。かっこいいよ、と自分では思っています。そうそう自転車はやっぱりカッコ良くないと、ってことで今回一番苦労したのがヘッドライトです。


170807-06.jpg170807-04.jpgやっぱりアップハンドルの何が抵抗があるかというと、かっこ悪いという思い込みが抜けないところなわけで、これをどうにかするには、それなりにボリュームがあってイカしたヘッドライトを正しい位置に装着するしかあるまい、となって、探し出しました。5万円もするようなビンテージライトじゃなくて、中国製のバイク用テールライトです。このクソ重くてリフレクターも何にもついていないアルミの塊を削りまくり、LEDユニットと電池を仕込んで、仕上げにアルミのファスナーを自作しました。これを自作のライトステー兼フロントキャリアに取り付けて、とりあえずは悦に入って眺められる姿に、なったかなー

DSC01999.gifシステムに囚われている時、俺は不自由だが、不自由な俺には目的がある。その目的とは、他人から頼まれた仕事をそつなくこなすことであったり、その評価であったり、給与の額であったり、オークションの落札価格であったり、レアアイテムの入手であったり、他人より速く移動することであったり、より少ないエネルギーで結果を出すことであったり、円滑なコミュニケーションを前提とした日々の安定であったりする。

システムとは人に目的を与えるものだ。目的を与えられた人はシステムの奴隷となる。そのようにして人は奴隷であることを欲するのだ。これはおそらく生存本能の一側面であり、そのようなベクトルが消え去ることはないのだろうと思う。優れたシステムとはより多くの人々を奴隷化し、主人と奴隷のわけ隔てなく、すべての人がメタレベルにおいて奴隷となることができるようなシステムのことを言うのだろう。

では、自由とは何か。自由とはシステムの内側においてシステムの外側を志向すること、その態度そのものであるように思える。つまり自由もまたシステムから生まれた目的の一形態なのだ。それは皮肉な見方をするならば、システムが健全に奴隷制度を維持するための必要な運動であるように思える。硬直した奴隷制度は永続性を獲得できないからだ。奴隷制度が恒久的に機能するためには、奴隷制度の更新が必要であり、そのためにはシステムを否定する自由が必須となる。

しかし生命には、あらかじめ約束されている絶対的な自由もある。もちろんそれは死だ。それはあきらかに、このうようなシステムの外側にある。むしろシステムを作り出した原動力であるといってもいいのかもしれない。その場所から俯瞰するならば、あらゆる目的を生み出し、あらゆる人々を奴隷化するシステムは、完全なる自由の内側で生成していることになる。それは素晴らしい救いだ。草原を渡る風の気持ち良さに嘘はないのだ。

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