29歳の時に本を一冊書いた。「天国への自動階段」という本だ。24年前のことだ。今読んだら恥ずかしいことこの上ない本だけど、真摯である事の嘘と、流される現実と、犯される欲望に対して、出来る限り軽く、永続性を排除して、精一杯の抵抗をこめた内容ではあった。

その本には実はもう一つのタイトルの候補があった。それが「REPLICA」だ。つまり複製だ。
「天国への自動階段」の主人公は複製の文化とコミュニケーションにどっぷりと浸かっていて、その、ありモノの中で、使い尽くされた感情と言葉と身体感覚でもって、なんとか使い尽くされた世界の向こう側に行こうとするのだけど、その行為はどこまでいってもヌルっと逃げていくリアリティに裏切られてしまう。どんなにクールに振舞おうとも、どんなにそつなくかわそうとも、どんなにスマートに昇華しようとも、どんなにおちゃらけようとも、どんなに斜に構えようとも、その感覚からは逃れることは出来ない。その苛立ちがあの一冊を書かせたような気がする。

で、最近思うことは、この状況はとんでもなく加速しているんだなということだ。とくにネットにおけるSNSやゲームの状況をみると、取り返しがつかないぐらい酷い状況になっているように見える。どれだけ複製されたかが誰にもわかるように可視化出来るようになったことで、複製することと、複製されることへの欲望はかつて無いほど膨れ上がっている。その世界では、複製出来る能力と、共感と嫉妬(どっちも同じだ)による他者による再生産の出来高によって、アイデンティティと価値が測られる。

たくさん複製できる人と、たくさん複製される人が偉いのだ。
それ以外の価値は無い。
全てのものは、たくさん複製するために、たくさん複製されるために作られる。
いかにしたらたくさん複製できるか、いかにしたらたくさん複製されるか、それだけが重要なのだ。
誰もが、たくさん複製できる人、たくさん複製される人になりたがっている。

なぜそうなるのだろうと思う。
その一つの理由は、それが富そのものであるからだろう。
富というのは同じものが潤沢にあることだ。富というのは希少なものが嫉妬によって羨望されることだ。

もう一つの理由は、コミュニケーションが失われた共同体において複製にしか逃げ道が無いからだろう。機能していない、内側に空洞しかない共同体は、どんなに言葉と憎悪を尽くそうともその求心力を取り戻すことは出来ない。その言葉と憎悪そのものが複製になってしまう。共同体は複製の内側における一つの約束に過ぎない。規律や法律が限りなく複雑化するのも、共同体が複製文化の内側にあるからである様に思える。

複製を拒絶するのは怖ろしく困難だろう。
その為には嘘の共同体と、嘘の富を拒絶しなければならないからだ。
複製を受容しさせえすれば今日をやり過ごせるからだ。
複製は飢えを和らげてくれる。複製は身体を忘れさせてくれる。複製は自分を見ないで居させてくれる。複製は身体を使わないで居させてくれる。

それが望みなら、既に未来は実現している。もう充分だと思う。
でも死は簡単にやってくる。あっけなくやってくる。誰にでも。
その時に複製は役に立たない。これだけは確実だ。
自分の死は誰にも複製できない。

ずっと絵をかいていたいと思う人は
その思いによって押しつぶされるだろう。

ずっと誰かと一緒にいたいと思う人も
ずっと楽でいたいと思う人も
ずっと好きなことだけをしていたいと思う人も
ずっと誠実でいたいと思う人も
ずっと欲望に従いたいと思う人も
ずっと全てから離れていたいと思う人も
ずっと何事も無くすごしたいと思う人も
ずっと平和であって欲しいと思う人も
ずっと喧騒が続けばいいと思っている人も
ずっと穏やかでありたいと思う人も

なんであれ
ずっとを
いつまでもを
求める限りは
押しつぶされるのだ

運動に従う
と言うのは易いけれど
運動は
ずっとも
いつまでもも
受け容れてはくれない
ということが受け容れられないがゆえに

最初は
そんなことは思っていなかったはずだ
ずっとも
いつまでもも

誰も

人と人とは近づきすぎた
あるいは
人と人とは離れすぎた

人と人とは依存しすぎた
あるいは
人と人とは排除しすぎた

人と人とは触れ合わなすぎた
あるいは
人と人とは馴れ馴れしすぎた

人と人とは無視しすぎた
あるいは
人と人とは求めすぎた


なぜその距離が測れないのか
なぜその温度が感じられないのか
なぜその音が聴けないのか
なぜその予感が感じられないのか

なぜ手を伸ばさないのか
なぜ許さないのか
なぜ出会わないのか

出会い続けているにもかかわらず
なぜ未来になってしまうのか

未来は明るい地獄だ
限りなく明るい布団の中だ

あなたを引き裂く人はそこには居ない。
私を引き裂く人はそこには居ない。
誰もが自分を本当に引き裂いている人を見ようとせずに
見当違いな人に責任を負わせようとする。

クソみたいなロマンティシズムで世界は回っている。
誰もがクソみたいなロマンティックマシンの歯車だ。
ロマンティックマシンは嫉妬と恨みと人工的な幼さをエネルギーにして回るのだ。
欲情は勃起や股間の充血から離れ
脳髄に血液を供給することで欲情という役者を演じるようになった。
パンパンに膨れ上がった脳みそは筋違いな役割にウンザリして弾けることを夢見るようになる。
いつか弾けるその日を夢見るだけで永遠の生が約束される。

準備することなんてしない。
備えたって、決定的な何かが起きないように生きるならば、意味なんて無い。
例えその決定的な何かが起きたところで、
準備さえしていなければ、なんの問題も無い。
だって、それは不測の出来事なのだから。
そうやって回るのだ。このロマンティックマシンは。

それなのに
誰もが引き裂かれている。
誰もが見ようとしないものによって。
その対象はすぐ目の前にあるのに。
それに気づこうとしないことだけが賢さであるように関係性が築かれる。

脅威も恐怖も流れも空間も温度も重力も何も無い。
無いわけが無いのに
血流を送られすぎた脳はそれを無いものにしたがるのだ。

そろそろ止めてもいいんじゃないの?
と誰かが囁く。
でも誰も言うことを聞かない。
誰もの耳元でそれを囁いているのは誰なのか?

今日も聞こえる。
そろそろ止めてもいいんじゃないの?

決められるのは私だけだ。

2013_nenga.jpg明けましておめでとうございます。いつもながらの架空動物干支シリーズの遅いご挨拶です。このシリーズも、もう11回目です。ということは来年で完結。全部揃ったらカレンダーでも作りたいなと思っています。
以前の架空動物はこちら。

日記の更新はあまりしていませんでしたが、去年はずっと機械をいじっていました。つまり旋盤日記の状態がずっと続いていて、大量の中古機械や刃物などをを購入して、錆を落としたり直したりしていたわけです。まだ終わっていませんが、大分揃ってきました。ケガキ、旋盤加工、ミーリング加工、鍛金、ロウ付け、削り、バフ仕上げと一通りの金属加工が、もう少しで自分の部屋で出来るようになる予定です。ということは自分の手で金属作品が作れるということです。わくわく。今年もよろしくお願いします。

一般的に明るければ明るいほど、人は外向的になり活動的になる。つまり、肉体的な活動範囲が広まり、精神的な活動範囲が狭められる。そして、暗ければ暗いほど、人は内向的になり、肉体的な運動範囲が狭まり、内部への指向性は高まる。これは生理的な反応だ。外部への興味や欲望をより長い時間保ちたいと思うならば、日が沈んでも電気や熱エネルギーを使って、暗くなった空間を照らせば、その欲望のテンションは容易に保つことが出来る。内部への興味や欲望をより長い時間保ちたいと思うならば、明るい昼間でもカーテンや目隠しを利用して明るい空間を遮断すればよい。

こう書くとあまりにも自明すぎて、そんなの当たり前じゃん、と、思ってしまうのだけど、この当たり前すぎる認識はニュートラルには働いていない。現代においては。ニュートラルではないということは、恣意的であるということだ。恣意的であるということは、少なからず、個体的な生理ではない、集団の志向性がそこに影響しているということを意味する。

コンビニやドラッグストや街灯の煌々たる輝きは、意図の無いものではない。そこには人を常に外部への志向性を保ったままにしておきたいという、市場経済的な恣意的ベクトルが働いている。こうして、深夜の1:42にこんな文章を書いている状況なんてものは、まさにそんな集団的恣意性の結果なのだ。

夜を夜のままに、その暗さによって活動範囲を狭めれば、身体は本来の内側への指向性を取り戻し、夜がもたらす内部へのダイブを、より容易に実行することが出来る。なぜ、その恩恵を捨ててまで夜を明るくする必要があるのだろうか。

いつでも好きな時間に、内部への指向性と外部への指向性を切り替えることが出来るということは、近代以降、贅沢の象徴の一つだったのだと思う。それを自由に切り替えることが出来れば、どれほど人間は自由になることが出来るだろう、そんな風に思われていて、今でもその考えは有効であるように思われている。でも、その効力や有用性って、たかが知れているし、大した実効性は無いんじゃないかと思うのだ。薬物みたいなもんで。そういう意味ではエネルギーもまさにドラッグそのものだ。ドラッグというのは、単なる、時間とスピードと密度における、ちょっとした歪みの効果に過ぎないからだ。決定的で致命的な効果はマイナスにしか働かない。それが自分にとってのドラッグの定義だ。

昼間に活動し、夜にエネルギーを使わないことで、外部への指向性と内部への指向性は最大化される。おそらく間違っていないと思うのだけど、これを実践することが困難であることの不条理を解消するためのハードルが多すぎることに、今更ながら呆れている。

去年の9月25日に母の訃報を知らされた。ちょうど一年前の俺の52歳の誕生日だ。警察署の死体安置所で見た死後4日経った母の身体は、既に腐敗が始まっていて、あれほど身なりに執着していた母の歯が何本も欠けたままになっていたことに違和感を抱いた。その後俺は、ほぼ半年の間、その後始末に追われることになった。人が死ぬということは、生命の終わりである以上に、社会からその存在を清算する為のウンザリする作業を、残されたものに課すものなのだという事を知らされた。

そして今日の夜。俺はいつもよりもちょっと高い酒を飲みながら、妻と一緒に園子温の「冷たい熱帯魚」という映画観ていた。素晴らしい映画だったが、半分ほど物語が進んだときに窓の外の縁側でギシッという音がした。「猫かな?」と俺は言った。実際ウチには徘徊にやってくる猫がいたし、そんな重みを感じさせる音だったのだ。1分ほどして、気になった猫好きの妻が玄関を開けたのだが、そこにいたのは二十歳ぐらいの大きな眼をした一人の女の子だった。女の子は「酔っ払ってしまってすみません」と言った。

ウチは雑木林に面した行き止まりの家だ。家に辿り着くためには、なんの明かりもない道を30メートルほど歩かないと辿り着くことはできない。つまり、ウチの前に来る人は、郵便配達や、検針業者や、宅配便のお兄ちゃんや、新興宗教の勧誘ぐらいであって、これらの人々に共通するのは、ウチを目指してくる人だということだ。そうでないような訪問者は、カラスに追われたミミズクだったり、ヤブカラシに誘われたオオスズメバチやアオスジアゲハぐらいのものなのだ。

どのような理由で真っ暗な道を歩いてウチの縁側に腰掛ける若い女の子が来たかなんて想像もできない。女の子は申し訳無さそうな顔をしてすぐに家の前から立ち去ろうとして、それを妻が懐中電灯を片手に追った。俺はどうしようか迷ったが、付いて行かない方がいいだろうと思った。そして家に戻り妻の帰りを待つことにした。たぶん長く掛かるだろうと思った。バス停まで送るかもしれないし、安心するまでつきあうかもしれない。

20分ほどして妻が戻ってきた。女の子は裸足で、途中に脱ぎ捨てられた靴があり、笑いながら涙を流していて、誰かと喧嘩をしたらしく、それでも自分の靴を履くと、少しはシャキッとして、最後には「もし覚えていたら、遊びに来てもいいですか」といって別れたのだそうだ。そして「なんだかさぁ」と妻は言った。「なんかあんたのお母さんが会いに来たんじゃないか、とか思っちゃった。偶然だけど…」とんでもない偶然もあったもんだ、俺はそう思って、でも、そういう考え方も悪くないなと、妙に納得してしまった。人が生きていくためには不条理であろうとなんだろうと、たくさんの納得が必要なのだ。たくさん納得して死にたいのだ。

今日は彼岸花を今年初めて見た。小学生の時に初めて彼岸花を見て、この自分が生きている世界にこんなに不思議で綺麗な花があるのかと感動して、生まれて初めて花を摘み、それを持ち帰り、自慢げに母親に見せたら「お前は摘んじゃいけない花を摘んできたねぇ」と言われたのだった。そしてもちろんその花は飾られることもなく捨てられたのだった。

今夜のコオロギはとても控え目で良い声だ。

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