メカニカルな表現が好きだ。
音楽しかり、絵画しかり、立体しかり、ダンスしかり。
その本質はおそらく正確さにあるんだろう。
正確さからは程遠い技術しか持っていないのにも関わらず。

正確なだけの表現が嫌いだ。
音楽しかり、絵画しかり、立体しかり、ダンスしかり。
なぜなら正確さは過去に属するからだ。
その気持ちが俺を設計図の上を飛び越えさせる。

だからメカニカルな正確さの指標に従いつつも
その軌道は正確さでは測れないメタレベルの運動に従っている事だろう。
深い谷が水の流れによって刻まれるように、
道はそのように刻まれていくのだ。

優しさも暴力
暴力は応力
応力に良いも悪いも無い
応力のバランスだけが問題なのに過ぎない
現在の応力に相応しい場にいられるように
身体の基本構造は作られているのだ、きっと
その基本構造を流動的に踊れるかどうかだけが問題なのだ

最適化という未来

適応という未来

新しくも古くも無く

先端でも終末でもなく

珍しくもありきたりでもなく

現在が現在である時にのみ出現する未来

収束と分散が交わる処

それが繰り返され続ける処

最初からあるのに見失われ続ける処

帰る場所ではなく本来の場所

支えるものを必要としない場所

時間と共にある

時間が時間を離脱する場所

長い間モノを作っていると、と言っても、自分では長い間モノを作っているなんて実感は大して持っていないのだけど、まあそれでもいろんな状態を経験したりする。自分から湧き出てくる意欲の喪失もその一つだ。

昔はコレが怖くてしょうがなかった。というより、今までコレが怖くなかったことなんて無い。人の創作意欲なんてものは、おそらく9割方は、憎しみだとか、喪失感だとかに基づいているものだ。だからこそ、ある病に侵されているときにはとんでもないテンションで眼を見張るような作品を作っていた作家が、そこに一定の充足が訪れたとたんに陳腐な作品を作り出したり、若い時には欲望にさいなまれつつ、道を見出そうとしてがむしゃらに走っていた人間が、ひとたび道に嵌ってしまうと輝きを失ってしまったりするのだ。

かと言って、そこに他人の幸せだの、崇高な理念だの、嘘っぱちの思想だのを持ってきて意欲の代用にするなんてのはもってのほかで、むしろ最低だとしか思えない。そんなものは口を満足させたいだけの人に任せておけばいい。

意欲が無いなら、意欲が無い状態を享受すればよいのだ。創作意欲は無くとも、食欲や性欲はあるわけだから、十分生き延びることは出来るわけだし、それでなんの問題があるのか。自分の仕事だったからといって、なぜ嘘をついてまで意欲のある状態を演じる必要があるのか。そしてその意欲の無い状態がもし死ぬまで続くとしても、それはそれででいいではないかと思う。

やるべきこと、やりたいこと、やらなければならないこと。そういう表面的な主体性の関わり具合による区分は、実は物凄く現代的な一過性の社会における区分なのであって、少しも本質的な区分ではない。やることやって、やらされたこともやって、やらなきゃいけないこともやって、やりたいこともやって、その動機や欲望の方向がどんなであれ、それをし続けるだけでいい。

その空白は、精神的な(もしくは肉体的な)サイクルの一つの局面に過ぎない。そして意欲の空白における外部の情報の何と豊穣なことか。その豊穣を見ないことは、なんてもったいないことだろう。

絵画が実現し得る「そこにある限りなく薄い空気感」と、写真がデフォルトで持っている「その先にある限りなく深い空気感」の間で、両者は互いに恋をし合っている。

だが見てみたいのはその恋の終わりなのだ。その先に、それが進化の終わりではなく、当たり前になった後にこそ進化が訪れるのだと思う。

裸眼3D動画と洞窟の壁画とフラッシュサーフェスなデジタルプリントとリアル立体の造形物がそれぞれに共鳴しあう未来は、そしてさらに、そこに触覚や臭覚が統合される、実は大昔からあったリアリティの未来は、再定義されることを待っているだけなのだ。さらにおそらくは、そんなものは時代の未来ではなく、個人の未来に過ぎないのだ。

人はかつて見た夢ではなく、見たことのない夢の始まりを求めている。

そう自分では思っているが、そうではない人が沢山いることも知っている。
だが、そうではない人が見たことのない夢を求めていないかといえば
そんなことは無いのだと信じている。

信じているなんて言いたくないのだけど
自分が自分以外でないのならば、
他の言葉が思いつかない。

こんなとき、
宗教があったらとっても便利なんだろうな。
そんな便利な宗教はいらんけど。

ベートーベンの第9はBUKKAKEだと思った。それは盛大さに対するフェティッシュだ。
そのようにアダルトビデオと表現を対応させていくと、取りこぼされるものが無いほど完璧な対応表を作ることが出来るように思えた。そしてそれはおそらく間違っていない。あらゆるフェティシズムは日常という名の社会的常識に含まれている。

しかしもちろんそこには社会的には犯罪とされる行為も含まれる。だがそんな違いを定義する行為は、ありえないほど陳腐なことだ。

序章を賛美する人、予感を良しとする人、駆け上る坂に情熱を燃やす人、限りなく緩やかな歩みの果てに長く穏やかなオルガスムを求める人。それらの違いがどれほどの違いなのか。

人の欲望に、どんなシチュエーションであれ、大きな違いなんて見出せない。そういうことこそが大事なのだ。

ベートーベンは大量の精子をぶちまけたかったのだ。

« Newer ......... Older »
Powered by Movable Type

Profile

Archive

Comments

Feeds