June 2002Archive

なんか今日は回線状態が最悪でした。一応ADSLなんだけど切れまくり。映りの悪いテレビにするようにモデムをひっぱたきたくなってしまいました。どうしちゃったんだろう。どうも雨が降るとダメみたいです。
これはほんとにテレビといっしょ。ウチではテレビの映りが悪くなると「気」を送って直します。超能力者のつもりになって両手を前に出して「映れ?映れ?」念じると、運がいいとグッドなタイミングで映ってくれるときがあって最高です。ダメなときはとても悲しい思いを覚悟しなくてはなりませんけど。

ところで昔読んだ本でライアル・ワトソンという科学者が書いた「スーパーネイチャー」という本の中に、ほんとに機械との相性が敏感な人の話があって面白かったです。ある人はその人が工場に入ったとたんに全部の機械が壊れるとか、逆に調子悪かった機械が何事もなかったように動き出す人とかが居たそうです。この本はいわゆるサブカル本ではなくて科学者の立場から超自然現象などを検証した本なのですが、かなり綿密なフィールドワークをして書かれているのでおすすめです。他にも「水の惑星」という写真絵本みたいなのもあってこれも面白いです。

サイトの方は昨日に引きつづきSAKUBA WORKSの方をいじってました。ついでにいくつか素材が出来たのでキネガワ堂にウロコ模様をアップしました。

昨日の続きを書こうと思って、書き始めたのはいいんだけど、自分が書こうとしていることが簡単には書けないということに気がついてしまって、急遽変更することにしました。
毎日書いているといろんな事があるなぁ。

だいたい日記をつけた事なんてただの一度もないし、文章だってシナリオや絵本は書いているけど全然プロでもなんでもないもの。ガキの頃の夏休みの日記なんて最終日に一度に書いた口です。

というわけでキネガワ堂のテクスチャーに素材を追加しました。でも繋ぎのためだけじゃないです。やっとSAKUBA WORKSのPUBLICATIONに手をつけ始めたので、その流れだったりします。こちらは見せ方の基本はほぼ方向性が決まってきたので、そんなに遠くない内に見られるようになる予定です。

マジックハンド、最近はあまり見ない気もするけど知ってますよね?こんなの
小学生の頃は憧れのオモチャでした。なぜかウチはこの手のオモチャは買って貰えなかったんですよ。駄菓子屋的いかがわしさが漂ってるでしょ。「王様のアイデア」とか行かないと手にはいらなさそうな雰囲気がプンプンしてるし。
それでもとにかくマジックハンドが欲しくて、物干し竿を引っかけるためのハンガーというか、似たようなヤツがあるじゃないですか、あれを何度かっぱらおうかと思ったか知れません。結局イイ子だったのでそんなことはしませんでしたけど。

他にもアンテナボールペン(正式名称はなんだろう?とにかく車のアンテナの先っぽがボールペンになってるようなヤツ。なぜか蓋は蛍光プラスチック)とかリモコンの戦車とか、遠隔操作するものには何でも憧れてたような記憶があります。
極端な話、ベッドから一歩も動かないで全てが出来たらどんなに素晴らしいかと真剣に考えていました。食事も勉強も遊びも全部。唯一実行に移したのは、子供部屋の外にあった電気のスイッチをベッドから消せるように凧糸で仕掛けしたぐらいかな。三回ぐらい使ったら壊れましたけどね。凧糸で思い出したけど、糸電話もかなりハマりました。

遠隔操作の魅力というのは、その意外性に尽きるような気がしています。体の不自由な人なんかにとってはほんとに有り難いものでしょうけども、元気な子供にとっては、たった60センチ先にあるものをとるのにそんな道具を使う意味なんて何一つありません。移動していないのに手が届く、さわっていないのに戦車が動く、離れたところから字が書ける、話しが出来る。つまり本来あり得ないことをあるように見せるのが遠隔操作の魅力なのです。

これは子供にとってはかなりリアルな体験です。というより、リアリティの基本にはこの驚きがあるような気がします。モノを見たり感じたりする位相がずれるわけです。
いまだに世間では写真的リアリティがリアルの代名詞として使われていますが、そんなのは「死んだリアル」に過ぎません。ほんとのリアリティ、つまり「現実感」は、現実だと感じることなわけですから、写真的現実を見て現実のようだと表現をするのはどこかおかしいです。やはり「俺は今現実と向き合っているぜ」という感覚に対してこそリアリティという言葉が使われるべきです。

話しがちょっとずれてしまいましたが、遠隔操作はかつてはそのようなリアリティを感じるためのとてもイイ素材だったような気がします。でも今はどうも違ってきているようです。今では遠隔操作の方が「写真的リアリティ」になっています。僕が子供のときに夢想した形とはちょっと違いますが、ほんとにベッドから動かないで生活することだって不可能ではありません。でもそれが可能になった今、そんなことを望む人は逃避願望に取り憑かれた人ぐらいでしょうね。

今日はなんかテンション落ちてるなぁ。
という書き出しをしてもいいものかどうか悩んでしまいました。書いちゃったけど。日記だったらアリだよね。メディアとしては失格かも。このコーナー的にはどうなんだろう。やっぱり空元気でも元気よくやった方がいいんだろうか。でも空元気なんてどうせバレるんだから楽に行った方がいいんじゃないの?とかね。

最近はこのコーナーのために良さそうなネタはメモしてたりもして、確か昼間のうちはほとんど内容も決まってたはずなんだけど、いざこうして書く時間になってみると、昼間のうちに書こうと思っていたネタを展開するだけのテンションが保てなくなっていて、どうしたもんかと途方に暮れてしまうのでした。

こういうときは、こんなコーナーを毎日書こうなんて決めてなかったら、なんとなく酒でも呑みながらダラダラして早めに寝てるんだよね。それはそれで人間的に正しい選択だという気がする。じゃあ僕が今やっていることは正しくない選択ということになるわけか?それはかなり悲しすぎるぞ。
でも考え方を変えれば自分を元気にするために書くことだって出来るはずだよな。それは上手くいけば読んでる方にとっても不快なことにはならないで、逆に何かコミュニケーションが生まれるような結果を作り出せるのかもしれない。これはかなり難しそうだけど。

とりあえず今日はいいオチがつかなさそうなので、へぇ、と思ったサイトをご紹介。 Lots of Robots。プライベートムービーのサイトだけど、かなり見応え充分です。やっぱり本人が楽しんでいて、しかも気合い入れてやってるヤツはいいよね、って自分もそのつもりなんだけどさ、もちろん。

追伸:
今日はいつもより多めのお客さんが見に来てました。といっても70人ぐらい。関東地方はとてもしっとりした天気だったけど、なんかこのサイトを覗いてみようと思うような天気だったのかなと、妙な想像をしてしまいました。でも外人も多かったのでもっと僕なんかには分からない深遠な要因が働いていたのかもしれません。きっとサイトの傾向によるバイオリズムみたいのって絶対ありそうな気がするこの頃です。

サドマゾヒズム。
これって普通は性的趣味に限られて使われるのが一般的だけど、僕は人間関係とか社会的運動の根本にすごく深くかかわっていると思っています。ひょっとしたら人間関係という運動のダイナミズムはこれがなかったら何も生まれないのではないかと思うほどです。

SMの基本は支配と被支配ですが、現実的にはこの関係はとても錯綜したものになります。例えばマゾヒストが苦痛を感じながらもそれを喜びに感じることで関係が成立していた場合、関係の主導権は明らかにマゾヒストのものとなります。なぜならサディストがマゾヒストに対して喜びに変化しない苦痛を与えた場合には関係は終わってしまうわけですから、結果的にサディストはマゾヒストの喜びに奉仕していることになるからです。
これを経済に置き換えてみると、たとえばプロダクトの制作者と消費者の関係では、一見、市場の主導権は制作者側の方にあるように見えますが、実は本当の主導権を握っているのは消費者側であるというのととても似ています。この場合ならマゾヒストの喜びであるところの苦痛や拘束を、労働や社会的規範に置き換えることが可能でしょう。

と、これはマゾヒストが主導権を握るサドマゾヒズム。
サディストが主導権を握る場合はもっと単純です。これは生け贄がいればそれで終わりです。政治でいえばファシズムです。この場合マゾヒストは完全な依存に快楽を見いだすわけです。優れたアイドルとファンの関係などもこれです(モーニング娘とかはマゾヒスト主導ですね)。

でも僕はどちらにもあまりエロティシズムや魅力を感じません。だって全然ロマンチックじゃないし。結局マスターベーションなんだという気がします。
別にマスターベーションが悪いとかいうつもりはないし、治療的効果としては絶大だろうから、大いにやればいいと思うんだけど、僕はそれじゃつまらないというだけです。

僕がワクワクするのは、たとえばマゾヒストの喜びは「サディストが喜ぶこと」を感じることであり、サディストの喜びは「マゾヒストが喜ぶこと」を感じることであった場合に支配と被支配が入れ替わりつつエスカレートしていくような関係です。
これは普通に考えるとかなり不幸な関係かも知れません。なぜなら関係を深めれば深めるほどお互いが孤独になっていくからです。でも僕は、この孤独はそんなに悪いものじゃないと思っています。たぶんこういう関係は人を遠くへ運んでくれると思えるからです。
そして僕の中では遠くへいくということはすごく大事なことなんです。

カウンタックが走ってました。新宿のアルタ前を。
カウンタックというのはイタリアのスポーツカーです。かなりとんでもないカッコをしてます。こういうのをエキゾチックカーといったりします。

好きなんですよ。カウンタック(ひょっとして以外かな?)。自動車免許持ってませんけど。これはこれでかなりヘンナモノだと思います。エキゾチックと言うよりエキセントリックと言った方がいい感じです。ちょうど高校生ぐらいの時にスーパーカーブームというのがあって、騒いでいたのはほとんど小学生でしたが、学校の黒板を私有化してカウンタックだのミウラだの描いていました。自動車好きは小学生の時からでトヨタの2000GTとかに憧れたりもしていました。

でカウンタックなんですが、あれはデザイナーのエゴの固まりのような車です。デザインしたのは当時ベルトーネというカロッツェリア(イタリアでは車のデザイン工房をこう呼ぶらしい)にいた、ガンディーニという人物。
カウンタックの原型となったストラトス・ゼロなどかなり強烈なデザインをたくさんやっています。
この頃に彼が手がけたコンセプトカーはどれも人間を無視したようなデザインが多く、カッコよけりゃなんでもアリだろっていうノリが人並みはずれて強烈に表れています。カウンタックはバック運転できないぐらい後ろの窓が小さかったり、ストラトス・ゼロなどはボンネットから乗り込むようにデザインされているのです。もちろんこれは時代の風潮でもあり、いかに無機的でクールなデザインで「未来」を表現できるかと皆が競っていたわけです。この時代においては「未来」が流行だったんでしょうね。そしてカウンタックは実際に販売に移された「未来」としては最も先鋭的でなおかつ成功した例だというのは間違いありません。

実は僕がid2000(壁紙になっているやつ)というバイクのデザインをやっていたとき、いつも頭の中にあったのはカウンタックでした。あれと同じぐらいのインパクトを持つバイクをデザインしてみたいとただそれだけを考えていました。それが成功しているかどうかはともかく、なぜあそこまでデザインというものに(そしてデザインが作り出す幻想に)自分が(人が)引き寄せられたのか、今でもよくわかりません。かなり知りたいことなんですけど。たぶん性的な問題であったりとか変身願望であるとか心理学的な説明は色々付けられるのでしょうが、僕が知りたいのはもっと体が納得できるような答えなんです。ん?、修行がたりんな。

ところでカウンタックという名前は、どこだかの原住民の言葉で驚きを表す言葉なのだそうです。日本語でいえば「ギョエー」ってところです。
しかし久しぶりに見たカウンタックはなぜか新宿の街によく馴染んで見えて「ギョエー」とは思いませんでした。それがなぜかとても寂しく感じられて、僕はおもむろに煙草に火を点けるのでした。

今日は身内のWindowsマシンをいじっていたんだけど、ちょうどいいやとこのサイトを覗いてみたところ、なんとWin IE5,0ではマトモに見られないことが発覚。ガ???ン。

今の状態でも、Netscapeの人はちゃんと見られなかったりするんだけど、こっちの人は1%以下だしまあしょうがないかと(ネスケの人ごめんなさい)思っていたんだけど、Win IE5,0の人はログを見てみると1割弱ぐらいいるではありませんか。ということは十人に一人ぐらいはせっかく来てくれたのに作品が見られなかった(ダメなところというのがSAKUBA WORKSのナビゲーションだから最悪)というわけだ。
悲しすぎ。

そこで焦ってタグやスクリプトを見直してみたところ、何故か今まで気付かなかったいけない記述がボロボロと出てきて片っ端から直したのだけど、結局直らず。
おかげで間違いはだいぶ訂正されたけど...

もしこの文章読んでる人でWin IE5,0の人ががいたら、SAKUBA WORKSを見るときはSAKUBA WORKSのページをいったん表示させようとしてからブラウザを最小化して下さい。そうすると何故か表示されます。あとは5,5以上にバージョンアップ。これが一番快適。
そのうち原因が解明されたらすぐ直しますので許してね。

あとこのところ更新スピードが落ちてますが、ヤクザなオヤジにはヤクザなオヤジの事情というのがあるので、何となく察してやって下さい。水面下では白鳥のように必死に漕いでいますので(これって通じる?)。

う?ん、つまんねぇニュースになってしまいました。

......... Older »
Powered by Movable Type

Profile

Archive

Feeds