July 2002Archive

わかりやすいってどういうことだろ?
多数の人は嘘であっても分かりやすいことを好む。という偏見を僕は持っている。ほんとはこれが僕だけの偏見だったらどんなにいいだろうというのが本音だけど。

これが何故なのかは僕なりに理解している。こういう人々にとっては、わかりやすいということは自分を投影しやすいということだ。もしくは自分を放棄して依存しやすいということだ。そして僕はどっちも嫌いです。

でもわかりやすさそのものを否定してるわけじゃないんです。ただ、僕がわかりやすいと思っていることが人には多々通じないことがあって、じゃあ、その人たちにとってのわかりやすさって何なのって事になると上に書いたようなことになっちゃう。だけど僕は、僕の努力が足りないがために通じないだけであって、もっとやれば、いつかはわかりやすいものになれるんだって信じることにしてます。

僕が欲しいわかりやすさは、イージーじゃなくてシンプルです。シンプルなだけで充分だし、それ以上に分かりやすい事なんてないでしょ?

今年も行って来ましたよ、おにいさん。
どこへって決まってるじゃないですか。花火ですよ、花火。
もう、これだけは毎年欠かさず行ってやす。かれこれ15年ぐらいですぜ、おじょうちゃん。年季もんですよ。
花火、たまりませんな。グッとくる。スカッとする。大声出して、ウットリしちゃってそりゃもう大好きでさ。

場所は柴又、帝釈天のすぐ近く、江戸川土手の矢切の渡しと来たもんだ。だけどオイラは人混みは勘弁、対岸から見るのがおつってもんで。ウチから歩いて一刻。酒でもぶら下げて雪駄引っかけて、なるったけヤクザなアロハなんかも着ちゃいます。こういうのは気分が大事ってね。それに今日は夕焼けお空の綺麗だったこと。見ました?見てない?見なきゃ駄目じゃん。だんだんいいあんばいに暮れていくお空を眺めながら歩いていりゃあ、否が応でもその気になって来るってもんで。

程良く暮れてきたところで現場到着、もちろん真正面。
と同時に秒読みが(年季もんだって言ったでしょ?)5,4,3,2,1,

ズダドダドドドドズドドドドドーーーーン!!!!!
バキャバキャバキャバキャヒュウルルヒュウルルバチバチバチバチバチバチバチ ドン!ドン!ドドン!ドドドドドドン!!バチバチバチバチ...

オーーーーー。

こっから先は書くのが野暮ってもんで。
(お前だれだよ!)

小学校の4年生ぐらいの時、僕は自転車屋さんの前を歩いていました。自転車屋さんには最新型のサイクリング車(この当時はこの呼び名が主流)が並べてあって、もちろん新しい自転車は欲しいのだけれど、買って貰えるあてもない僕はそのまま通り過ぎようとしました。

ところがその日はやけに天気が良かったせいか、アルミや鉄の部品がやけに輝いて見えて、気がつくと僕は覗き込むようにして一つ一つの部品の造形や、ネジの頭や、魅力的なワイヤーの取り回しや、複雑なギヤチェンジなんかに見とれていました。すると今まで平面的に見ていた自転車が、おそろしく魅力的な立体物に変化していくのが自分でもよくわかりました。そしてそれと同時に強力な喜びがこみ上げてきてワクワクが止まらなくなってしまいました。恋に落ちちゃったんですね。いくら見ていても飽きないし、どんなに良く見ても新しい発見があるし、見れば見るほど深みにハマっていってしまいます。そして一、二時間ぐらい眺め回したあげく、僕は家に帰って自転車の絵を描いたのでした。
それから自転車屋さん通いやカタログ集めの日々が始まったのはいうまでもありません。

何かを好きになるときには、必ずこういう「魔法の瞬間」があるような気がします。その対象が人であれ、ものであれ、生き物であれ、この瞬間に経験されている「なにげないものがかけがのないものに変化する」リアリティは同じものだと思えます。この瞬間によって意味のないものが「唯一のもの」になるのです。

でも赤ちゃんとか見てると、こんな時間ばっかり生きているような気がします。何が言いたいのかというと、この「魔法の瞬間」こそが認識のベースなのではないかと思うんです。これのないところでは言葉も言葉として機能しないかも知れないし、感情でさえ生まれないかもしれない。そしてこうして考えてみると、自分が普段、いかに死んだ言葉や死んだ感情で日々の生活を送っているかに愕然とするのです。

「いのち短し恋せよ自分」

髪の毛を切りました。
切って貰ったんですけど、人の髪も切ったりします。これが面白いんです。

最初はどうやって切ったら自分の思い通りになるのかサッパリわかりませんでした。これでも一応モノを作る人間としては髪の毛ぐらい切れるぜ、とか思っていたんですが、とんでもない。髪の流れ、髪質、ボリュームの作り方、減らし方、髪の生え方や頭の形、作ろうとしている髪型とその人の顔との関係など、あらためてこれらのことを観察して、考えなくてはなりませんでした。

こんな時にいつも感じるのは、知っていると思っているものでも、いかに自分が何も見てなかったかということです。
髪の毛なんて何度も絵に描いているし、そのために見たり触ったりもしているし、たとえ絵なんて描いていなくても、誰もが良く見て気にしたりもしているものです。それなのにこの有様なのです。バイクを作ったときもそうだったし、このサイトを作ったときもそうでした。

今だって自分が知っていると思いこんでいて目も向けないようなことに、いかに自分の知らないことが隠れているかを思うと、もっと謙虚で敏感に生きたいとほんとに思います。だって自分が経験した事なんてそうでないことに較べたらどれだけちょびっとか想像もできません。

ただ、こんな事言ってますが、密かに、そして頑なに思っていることもあります。それは「人は全てをあらかじめ知っている」ということです。「人は」というところはほんとは無い方がいい。ひねくれた言い換えをすると「人以外のものは全てをあらかじめ知っている」というのが正しいのかも知れません。人だけがその事実を感じないように生きている。でも人である以前の所では全部感じているような気がしてならないんです。

隣に座った女の子の全ての髪の毛一本一本と、おそろしく高い空の全体と、横たわる川の水の総量と、そこに生きている一匹一匹の生物の全てと、無数の植物が生長していく様に、一瞬のうちに同化して全てを同時に感じるような感覚に、強い憧れと近いのか遠いのかもわからない深い懐かしさを感じます。

当たり前すぎて書くのもはばかれますが暑かったです。予定していた仕事が5mmぐらいしか進みませんでした。そしてこんな時はなぜか家事がはかどります。どうにもノリが悪いときや、今日みたいな日は気がつくと料理を作ったり洗い物をしたり買い物に行ってたりするんです。

肉体労働は大して苦にならないんですよ。ところが机の前にじっと座って、タブレットがベタベタになるので上にタオルを敷いて、ジンワリ滲んでくる汗を感じながらイラストレーターかなんか起動して、暑すぎてマシンぶっ壊れるんじゃないの?とか思いながら、クソ小さいアンカーポイントなんてものをチマチマ動かしていたひにゃあ、あんた、誰だって「そうだ洗い物しなきゃ」って事になりますよ。おまけにウチは今時「井戸水」で水がチベタくて気持ちのいいこと。そしたら当然「お米もといでおこ。俺って働いてるって感じ?」ってことになって「今日の晩飯何にしよ」とか言いながら冷蔵庫を開けて、今度は気持ちのいい汗をかきながら下ごしらえかなんか始めちゃったりするわけですよ。するとやっぱり「あれがなかった」てな事になりますね?不本意ながらも、とっても涼しいスーパーにいかなきゃなりません。それにこの時間帯なら「半額天使」が出現しているに違いない(ウチでは半額シールを貼っている店員の女の子はこう呼ばれています)。読みは見事に的中。だてに長いこと通っちゃいません。家に帰ってくるとヒグラシがいい声で啼き初めて「汗もかいたことだし風呂にでも入るか」ってことになります。そして風呂上がり、下ごしらえした料理をチャチャッと作ってビールの一杯ぐらい飲んじゃって、働いたあとのビールは美味いや、あ?いい一日だった...って、仕事全然進んでないじゃん、が?ん。あせって仕事を再開する自分に天のお声が
「いまさらもう遅い。この怠け者がぁ!」
チェッ、チェッ。

ここで問題です。
サクバはこの場合どの道を選んだらいいでしょう?
1・クーラーを取り付けて仕事を優先する
2・暑いときは仕事をするのを諦める
3・暑くてもど根性で仕事をする
4・文句を言いながらもなんとなくやり過ごす

今は4番。理想は2番。三時のおやつは文明堂~

僕は煙草を吸います。今も吸いながら書いています。
キツイのが好きで普段は両切りのゴールデンバット。キャメル、マルボロ、ガラム、ゴロワーズ、葉巻でもOK。
ポイ捨ても散々やってきました。今でもたまに。でも両切りを吸っているときはほとんど罪悪感はないです。(フィルター付きは捨てません)なんでかと言うとあっという間に粉々になって痕跡が無くなってしまうから。ほとんどアスファルト道路の脇に堆積している微量の泥や埃みたくなってしまいます。だから自分の家の庭(と言えるほどの広さはありませんが)でも捨てます。すぐに土と馴染んで後は勝手に分解されます。

それに街を綺麗にすることには大して関心がありません。街から出る他のゴミや排気ガスと較べちゃうと大嘘つきになってしまうのでやりませんが、それを抜きにしても綺麗な街って嘘臭いです。もちろんほんとに綺麗な街というのはあると思うし、そんな街なら僕だって綺麗な街の方がいい。でもそれは本来綺麗でいられるような構造(社会、経済、技術、文化)を持っているから綺麗なのであって、そうでない街はいっそもっと汚くなって着飾るのをやめた方がいくらか魅力的だぐらいに思ってしまうのです。これがかなり暴力的だというのはよくわかってますが、一面としてはシンプルな事実です。そしてこれぐらいシンプルな見方も持っていないとウンザリして胃に穴が開いちゃいます(これはたまに捨ててしまう理由として書いてるわけではないですよ。そっちの理由は灰皿を忘れたり、面倒臭くなってというのがほとんどです)。

これは煙草を吸うことにも言えます。この場合街は自分の体です。どう考えたってまともな生活なんてしていません。街を綺麗にするような行為、例えば健康診断を受けるとかビタミン剤を飲むとかいうことは全くやってませんが、この体は充分街と張り合える汚くて不健全な体だと思います。一部だけ酷使して後は弛みっぱなしだし、文明の利器がなかったら大したことが出来ないし、すぐにバカな無理をするし、その上煙草まで吸ってるわけです。でもここで健康のことを考えようとしているわけではありません。僕がいいたいのはその手前のことです。煙草だけじゃなく全ての総体としてこの不健全はあってそれを自分でわかった方がいいということです。しかも僕は不健全を否定的な意味で使っているわけではありません。そんなもんイイもワルいもないです。体が弱っちいから不健全と言ったまでで、それが原寸大の今なのです。

僕が唯一煙草について駄目だと思うのは、自分が煙草を美味しく吸うための努力を怠っていることです。どうせ吸うんだったらこの努力をするべきだと思っているんですが、どうも負けが込んでいます。

凄くいい文章に出会ってしまいました。
以下引用
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ぼくはおしっこをしている

おゆのようなようすいできもちよかった

おかあさんのおはなしをきいている

ぼくはようすいをのんでいる

ぼくはおしっこをしてようすいをきれいにしました

おちんちんがおおきくなってくる

(中学3年生知的障害児の文)
『障害児(者)のセクシャリティを育む』大月書店
(本ではここに、臍の緒に繋がった胎児の状態の本人による絵が添えられていました)
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これを読んだら急に懐かしさとせつない気持ちがこみ上げてきて何ともいい気分になってしまいました。

女の子のことは分からないですが、男の子はこういう気持ちに誰もが身に覚えがあると思います。僕も小学校の三年生ぐらいの時、目が覚めると部屋の中が異様に甘く明るくて、気がつくと今まで感じたことのないせつない気持ちに襲われてどうしていいかわからなくなってしまいました。苦しいのですがイヤな苦しさじゃない。何かが欲しいことはわかっているけど何が欲しいのかはわからない。仕方なく枕とフトンをかき集めて胸に押しつけ、思いっきり抱きしめてじっとしていました。あの時の気持ちを表そうと何度か絵を描いたこともあります。あまり上手くはいきませんでしたが。

とても遠いものを感じるとき、実態のつかめない憧れに胸を締め付けられるとき、こういうときの切なさも根は同じ様な気がします。かといって体内回帰願望とか、思春期の性の目覚めとか、予定調和への憧れとかで説明してしまうのは嫌いです。そういうことだけに収まらない生きていく力の原動力みたいなものが、きっと元の力としてあって、まるで火山からマグマが噴出するみたいに、身体の変化や気持ちの変化によって出てくるのだと思いたい。僕はそう考える方が可能性が無限に広がるので好きです。

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