クラフトエヴィング商會という人たちが作った「クラウドコレクター」という本を眺めていた。
架空博物誌的な本で、オリジナルオブジェや文で構成されていて、魅力的だしかなりオシャレだ。こういうものは嫌いではない。自分でも似たようなことはやりたいと思ったこともある。でも、ナンカなぁ、なんである。出来はいいし雰囲気もいいし作りも丁寧だし、文は拾い読みしかしてないけどいかにもな文体で書かれていて、もし自分が中学生ぐらいの時に出会っていたらハマっていただろうと思える。しかし何かが足りない。しかもそれは決定的な何かだ。
この足りなさは、例えば澁澤龍彦にも感じていたものだ。漫画家で言えばたむらしげる、ますむらひろし、(他にもいくらでも思いつくけど嫌みになりそうなのでこれぐらいにしておく)どれにも共通して「何か」が足りないのだ。
たぶんこれらの作家達は「世界の手前」でモノを作っているのではないかと思える。例えば似たような系列で語られる作家に宮沢賢治があげられるのではないかと思うのだが、ほとんど似たような手法を採りながらも彼にはこのような感じは受けない。つまり「世界の手前」にとどまっているような感じがしないのだ。
「世界の手前」とはつまり子供の視点と言い換えることもできると思う。でもここで注意しなくてはならないのは、この「子供」とは「消費者としての子供」に限定された子供であるということだ。「消費者としての子供」は自分から何も作り出すことはない。彼らは新鮮な好奇の目を持ってコレクトするかコレクトできない場合には憧れの気持ちを育てるのである。もっと分かりやすい言い方をすれば、人のふんどしで相撲を取っているということだ。しかし世の中に氾濫するほとんどのイラストレーションやほとんどの音楽やほとんどの読み物が人のふんどしで作られているし、別にそれはそれでいいのだ。そもそも僕は人のふんどしで相撲を取るのはモノを作るときの基本だろうとさえ思っているのだから。
しかしである。それしか無いというは困る。それと人のふんどしで作られたモノが必要以上に祭り上げられるのもつまらない。子供は子供でいたっていいけど、子供しかいないというのはどう考えたって異常だよ。よく現代市場を説明するときに「差異の再生産」という単語が使われるけど、これは要するに人のふんどしで勝負することを表しているわけで、ちょっと前まで美術の世界でいわれていた「新しいものなどない」って事は、人のふんどしの限界のことを言っていたに過ぎないと思える。つまり誰もが「世界の手前」で子供だったということだ。さらに困ったことには誰もが「世界の手前の子供」になりたがっているのだ。
もっと「世界の中心」にいたい。それのが絶対面白いって。


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