中学生ぐらいの頃から、たぶん30歳ぐらいまで、僕は強烈に自分の理解者を欲しがっていたような気がする。自分に似ている人、自分が尊敬できる人、自分を導いてくれる人、自分を求めてくれる人、少しでも可能性がありそうだと思うと、嫌われるぐらいにしつこく求めたことも一度や二度ではない。恋人同士の決まり文句「あなたとわたしは似ていると思うの」ってやつだ。もしくは「あなただけは僕のことを理解してくれると思っていたのに」でもいい。
大学生の頃だったと思うが高田博厚という彫刻家の家に作品の搬出などのアルバイトに行ったことがあった。その時は兄と一緒(兄は当時彫刻の勉強をしていた)に行ったのだが、その頃は二人してこの人の本にはまっており、相当尊敬もし、憧れも持っていたので、おそろしく緊張してしまった。内心は絵の話をしたり、あわよくば自分の絵も見てもらえるかも知れないなどと、妄想でパンパンになっていたのだが、なにひとつ実行に移すことが出来ず、アトリエに飾ってある彫刻や小さなパステル画や珍しそうな洋書の画集などを覗き見でもするみたいにコソコソと眺めて帰ってきただけだった。
もしあの時自分の絵を見て貰って、ひょっとして褒めて貰ったりしていたらどうだっただろうかと何度か考えたことがある。当時の自分は涙が出るほど喜んだに違いないが、今の自分にどんな影響があるかといえばどうだろう。おそらくたいした違いはないか、もしくは天狗になってダメになっていたかのどちらかのような気がする。
今の僕は昔ほどにはそういう存在を必要としなくなっている。気持ちだけはたくさんあるけれど、不安や孤独の居場所が多少は出来て、外にはみ出すことが少なくなったような気がするのだ。それにこういう気持ちって所詮は自分の投影なんだと思う。だからといって何が変わるわけでもないけど、もっと自分の中に不安や孤独の場所が広がれば、それが結局求めていたものを手に入れるということなんじゃないかと思う。
おそらく僕はあの頃求めていたような理解者に出会ったことはなかったし、これからも出会うことはないと思う。
でも僕を受け入れようとしてくれる人や、僕と真剣に付き合おうとしてくれる人には沢山出会うことが出来た。それで充分だし、それ以上にラッキーな事なんてないと思うよ。


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