September 2002Archive

「ちょっとは人の気持ちも考えなさい」
星の数ほどいわれてきましたが、いまだにうまくいきません。多分普通以上に人に気を使わない人間だということは確かなようですが、これは努力で治るようなものではないのではないかとさえ思ってしまいます。別に開き直っている(多少はそんなところもありますが)わけではないのですが、人の気持ちを考えようとすると途方に暮れてしまうというのが正直なところです。もちろん相手には喜んでもらいたいとも思うのですが、途方に暮れたあとには疑問と怖れしか残らないので、今度は自分を追いつめてしまって何もできなくなってしまうのです。それを繰り返していると今度は自分がやばくなってしまうので、勢い人のことは放っておいてワガママ街道まっしぐらになってしまうのですね。

こういう人間の一番悲しいところは冗談が軽く返せないということです。って冗談はかなり好きで年中遊んでますが、それは安心感のある場所での話で、仕事の話をしていたりして相手が冗談を言っても冗談だと理解するのに、電車に乗って家に帰って風呂に入るぐらいの時間がかかったりします。当然僕に向けられた冗談は、行き場を失ってむなしく都会の空をさまようことになるわけです。かわいそうに。成仏して下さい。
冗談が楽しく返せる大人になりたい。一生無理そうだな。

ガラージュページ完成度72%(当社比)
今日は目が疲れてしまってあまり進みませんでした。

ひたすら作業をしてたので、頭の中が物書きモードに切り替わってくれません。さっきから一時間ぐらい「なに書こーかなー」と独り言を言ってます。

なんでこういう切り替えってスッと行かないんでしょうか。「わたしは絵のことはわからないから」という人に何百人(ちょっと大げさか)も出会ってきましたが、こういう人たちも頭の中が言葉や数字でいっぱいで切り替えが出来なかったりしてるのでしょうか。これはちょっと問題が違うかも知れませんが、確かに思考方法にはいくつかの種類があるような気がします。デザインをするのと絵を描くことでさえ頭の使い方が違うのです。

デザインと絵、どちらも言葉よりも目や手で思考するような感じですが、それでも違う。僕のショボイ経験ではデザインしている頭ではイイ絵なんて描けないし、その逆も然りです。この二つの比較でいうと、デザインの場合にはモチーフの内側との距離の取り方が、あくまでも他者として寄り添わなければならないのに対して、絵の場合にはその内側そのものにならなければならない。これはどちらが優れているとかいう話ではなくて、そのように単純に違うものだということです。そしてこの違いというのはほんとに決定的な違いで、10分おきにこの二つのモードを切り替えるなんて事はそうそう出来ることではないのです。

アリャ、なんだかんだ言って書いてますね。
よかった、よかった。

ガラージュページ、完成度68%。

額のことをちょっと考えていました。
このところキネガワ堂のシェアピースのこともあって、絵を持つとか、絵を楽しむとか、絵を飾るとかいうことをよく考えるのですが、額ってあらためて変なものだなぁって思ったのです。

例えば現代美術の世界では平面的な作品でも額はほとんど使われません。どこか体制的な感じがしたり古くさい感じがしたりするし、リアルなモノとしての存在感が伝わりにくくなるということもあります(金がかかるというのも大きい)。それがデッサンであっても、普通はいわゆるデッサンとしては扱われないので博物館の説明書きのような体裁になったり、そのまま放置されたりします。

と、そういう世界のことはどうでもいいのですが、やっぱり額って格好悪いんじゃないかと思うのです。自分の部屋に絵が入った額が飾ってあることを、何かしっくり来ないと思う人はかなりたくさんいるんじゃないでしょうか。それだったらでっかいポスターを画鋲で貼り付けたり、額に入れたとしても床にそのまま立てかけたりする方が多少はおしゃれっぽいとか.........う?ん、どうなんだろ。

自分では額は嫌いじゃないです。額って結局は「窓」ですから、いってみればコンパクトな映画館みたいなものです。床の間の発想とかも同じですね。問題はこのクソせまい部屋や、なけなしのカネや、忙しい毎日と、どうやって絵との折り合いをつけるかって事です。今考えているのは本と額の中間的なものは出来ないだろうかということです。手にとっても楽しめて、置いても楽しめる。まだ妄想段階ですが、いずれ試作品でも作ってみようと思っています。

ところでガラージュページの方がだいぶ悪ノリが入ってきてしまいました。ボリュームもたっぷり。完成度は60%ぐらいかな。もうしばらくお待ち下さい。
それと【ル:通信】もこのページの公開と同時に発行予定ですので、待ってる人とかいたらこれもちょっと我慢して下さい。

テレビに永遠とパチスロの画面が映し出されています。やってるのはもちろんタレントですが、8割ぐらいはパチスロの映像です。これを一体何人ぐらいの人が見ているのかわかりませんが、これが番組として成立のするのって結構不気味かも知れません。ちなみにパチンコ屋って一度も入ったことがありません。関係ありませんけど。

RPGのレベル上げにハマったり、レアアイテムを探したり、アニメや漫画の知識を事細かに貯め込んだり、エロビデオの企画のピンポイントで異常な展開やプランドに対する呆れるほどの情報収集も、つくづく日本ってオナニー帝国だなぁって思います。

自分にだってもちろんそういう傾向はあります。こういうのはヤルしかないんですよね。気の済むまで。気の済むまでやったところで何も変わらないということもあるかも知れませんが、それでもヤルしかない。

でもそれがいくらやったところでオナニーに過ぎないって事は分かっていた方がいい。結局オナニーの本質は「相手がいない」って事だから、本来は何かの代替物のハズなんです。ところがオナニーを繰り返す内に、代わりのものだったはずのものが目標そのものにすり替わってしまう。それが可能になるのはオナニスト同士の共同体があるからです。「俺らこのままでもいいじゃん」ってことになるんです。オナニストは過剰に孤独な人が多いですから、共感できる相手というのはとても貴重でしょうし、涙がでるほど有り難いものでもあるでしょう。だからといってオナニストとしての一生を誓い合わなくたっていいだろうと思うのです。せっかく共感できる相手と巡り会えたらなら、それこそ一緒にオナニストの先を模索することだって出来るだろうに、そんなことを言ったら最後「お前は俺を裏切るのか」って事になるわけですね。

これがオタクなどの一部の人のことだなんてとても思えません。会社もそうだし、学校もそうだし、近所づきあいも親戚づきあいも家庭の中でも、そしてこのネットの掲示板やチャットでも日本中のあらゆる場所でオナニストのぬるくて排他的な交流会が繰り広げられているわけです。やれやれ。

彼岸花が咲いてますね。あの花を見るのは好きです。
初めてみたのは小学校の時だったかな。家の近くにはあの花が咲くような場所はなかったのですが、たまたま虫取りか何かに行った公園の近くに咲いているのを見たのです。

あんなに鮮やかで大きくて不思議な花が、なんでもない日陰の土手に勝手に生えているなんて、とても不思議でちょっと怖い気持ちになりました。何かイケナイものを見てしまったような感じです。でもあまりに綺麗だったので引っこ抜いて持ってきてしまったのです。ちょっと興奮して得意げに家に帰ると、それは彼岸花であると教えられ、これは抜いてはいけない花であり、これを抜くと悪いことが起きるとか、人の魂が宿っているとか、怪しさ倍増の話をされて、心の中にクラ?イ小部屋が一個増えてしまったようでした。今調べたところ毒があるんですね。ただの迷信ってわけではないようです。子供の気持ちとしては、「ああ、僕はとりかえしのつかないことをしてしまった。どうしよう」って感じで結構悩みました。今でも彼岸花を見るとその時の気持ちを思いだしてしまいます。そんなに悪いものじゃないですけど。なんというか一対一で向き合うような気持ちです。一度も話したことはないけど昔から知っている同士、勝手な思い込みなのはわかってますが、そんな風になってしまうのです。

何度も書いているようにこのところガラージュのデータしか見ていません。あれが出てから3年経つわけですが、さすがに古いなぁ、というか稚拙な部分が気になるようになってきました。

自分のデッサン力とかも多少はあるかも知れませんが、やはり目立つのはCGの出来です。3Dはソフトの限界もありますから仕方ないと言えば仕方ないのですが、僕がやった手書きCGの方は今見ると明らかに道具(コンピュータ)に慣れてなくて、効果がどぎつかったり、テクスチャーに頼ってしまったり、振り回されているのが見え見えです。最初の頃はPhotoshopのフィルタ効果一つに狂喜してたもんなぁ。それに当時はタブレットがひどくてマウスで描いていたんだけど、初めて描いたときは思い通りにならないあまりに肩に力が入りすぎて、筋肉が固まって腕が上がらなくなりました。

まさかあれをリメイクするなんて事はあり得ないでしょうが、もしそれが出来たとしてその仕上がりを想像するのはなかなか楽しいことだったりします。でもゲームの出来ってやっぱり絵じゃないんですよね。絵はもちろん導入を助けたり、世界の雰囲気を作るのにとても重要ですが、絵のしょぼい良いゲームはいくらでも想像できます。自分で作ることを前提にすると絵にこだわらないゲームは考えられないですけどね。

「久しぶりー」
「おう、久しぶりー。元気だったぁ?最近俺サイトを作ってんだよぉ、見てみて」
「へぇ、凄いじゃん、全部自分でやってんの?」
「そうだよ、かなり本気で面白いこと出来ないかと思ってんだよね」
「へぇ、ところで最近何やってる?」
「え?だからサイトを作ってるんだよ」
「だからそうじゃなくてなんかやってないの?」
「だからやってるってば.........」
「ふ?ん.........」

どうもこの人にはウェブサイトでなんかやるということは、「何かやる」の内には入らないらしい。たぶんこの人的には「表現じゃない」ということなんだろうと思う。その気持ちは分からないでもない。要するにウェブサイトなんてものは宣伝か商売か意味のないコミュニケーションの場であって、そこで直接創造的な仕事をするような対象ではないと思っているのだろう。絵や映画や漫画や小説とは違います、というわけだ。

確かに[ru]は現状では宣伝や商売がメインになってるけど、それにしてもそこからはみ出している部分だって、今でも自分ではあると思っているし、それに世界中のサイト全体の状況を見渡してみれば、表現の場としての可能性なんてプンプンしていると思うのだけど、どうもそう思ってない人がたくさんいるらしい。

僕がウェブサイトで面白いと思うことの一つは中身と入れ物の距離が凄く近い点だ。小説なら文章にたいして本という形があり、それが流通業者によって運ばれ本屋に並ぶ、そこでお金と交換され最終的な入れ物である読者の部屋へと運ばれる。他のメディアも、例え一枚限りの絵であっても、それなりに面倒な手順を踏まないと最終的な入れ物に届くことはない。ところがサイトは出来たとたんに最終出力に持っていくことが出来る。

問題はそれが個人のモニターという媒体で出力されるために、解像度やデータ量に対して制限があるということだが、そんな欠点を補ってあまりある魅力がここにはあると思う。まだ自分自身が模索状態なのに、理解を求める方が無理があるのかもしれないけどね。

......... Older »
Powered by Movable Type

Profile

Archive

Feeds