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20020903: 決定的瞬間

昨日の昼間、窓の外を眺めていたら、アブラゼミが飛んできて窓の外の蜘蛛の巣(蜘蛛は収穫効率の良い場所に巣を作りますので年がら年中電気のついているウチの窓は格好の巣作りポイントです)に捕まりそうになって危うく逃げていきました。

もし巣に引っかかっていたら「決定的瞬間」という感じです。でもよく考えてみるとこの言葉って妙な言葉です。一体何が決定的になることをもって決定的としているんでしょうか。例えばライオンがインパラを捕獲する瞬間。雷が今まさに大木を割った瞬間。ツインタワーに旅客機がつっこんだ瞬間、夕暮れの寂しい道に街灯が灯った瞬間、蝉の幼虫の背中が割れた瞬間。

そういえばガキの頃って、「決定的瞬間」を目撃するために自分は生きているんじゃないかと思うぐらい「決定的瞬間」を待ち望んでいたような気がします。それにガキじゃなくたって「決定的瞬間」は社会においてとんでもない価値を持っていて、莫大な利益を生み出したり、信じられないぐらいの変化を派生させたりしています。

つまり「決定的瞬間」における決定とは、総理大臣がいつもの文書に判子を押すような決定ではなくて、そのできごとによって、事の大小はともかく「当事者にとってそれまでの関係性が通用しなくなる」ような変化に対して決定的という表現が使われているんでしょうね。

それにしてもどれぐらいの変化をもって「決定的」とするのかということはいっさい謎のままです。だって関係性というものは常に「決定的」に変化しているものじゃないでしょうか。なのにこのような区分けがあるということは単純に人それぞれの「日常性の認識」によって「決定的」か否かの判断があるに過ぎないんですね。人って勝手です。

でも自分が死ぬ瞬間だけは、本人にとって最強の「決定的瞬間」ということは変わらないし、実際どうだかわかりませんが、おそらく自分が目撃者にはなれないだろうという認識の中では「決定的瞬間」の魅力はかなり普遍的だということは言えそうです。

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