「たとえ誰からも愛されなくても、志を高くもって生きていく」アダルトチルドレンに関するの本の中でトラウマを抱えた人が生きる支えにしていた決意の言葉だそうです。だけどこの人は、ほんとに誰からも愛されないのには耐えられないので、もう一度自分には決定的に足りない経験があるという自覚の元に、そのトラウマを乗り越えようとします。
僕は18の頃、全く同じ決意をしたことがあります(といってもこれは病気宣言のつもりはこれっぽっちもありません)。しかもその決意はついこの間まで続いていたような気がします。もちろんいまだに引きずってることはたくさんあるし、臆病さや暴力的強引さが無くなったわけではないのですが、それでも他人と自分との間に、根本的な部分での共通点を見いだせる程度には、頑なさは薄れてきたようです。
このところずっと思っていることがあるのですが、それは人はなぜ名前を必要とするのかということです。「病気」という名前。「病名」という名前。「精神異常」という名前。「トラウマ」という名前。「アダルトチルドレン」という名前。「復讐」という名前。「平和」という名前......
このような設問が、おおざっぱで誤解を生みやすい設問だというのはわかっているつもりなのですが、そこにあえて気持ちとしての答えを考えると、「ただ安心したいだけ」なのではないかと思うのです。別に安心が悪いと言うつもりはありません。なのに何故こんな事を言うかといえば「名前のないところには病気もない」のではないかと思えるのです。たとえばの話し、人類全員が「精神異常」だったとしたら、「精神異常」という名前にはどんな意味があるのでしょうか?足りないのは名前ではなくて、異常に対する認識の深さなのではないかと。もしもより多くの人が自分にもっと真剣に向き合ったならば、いらなくなるような名前がどれほどあるだろうかと考えてしまうのです。
しかしこんな事を言ったところで、「自分に向き合う必要のない人は決して自分を見ない」わけですから、何も状況は変わりません。それでも例えば、社会的に必要とされる有効なスキルに変化が起きてしまえば、そんな人たちだって変わってしまうというのも事実でしょう。「今は無理」。これに腹を立てると一日が不幸になってしまうので、出来るだけ平気でいられるような強さが欲しいですが、たまには振り回されることあります。そりゃね。


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