ガラージュページ制作のために一通りのデータを眺め返したりしてます。
ところでガラージュは何もかも詰め込もうとして作っていました。「天国への自動階段」も同じようなことを考えていましたが、biographyにも書いてあるとおり、あれはどちらかというと「引用の集大成」みたいなものでした。ガラージュの場合は「何もかも」をさらにいったん全部ばらして、でっかい鍋にぶち込んで、ようく煮込まれたところで、一から組み直すような気持ちでやっていたんです。
本やゲームや映画という表現形式は、こんなやり方をする人間にはとても向いている表現形式だという気がします。
もともと絵を描いていても、祭壇画などの何枚もの絵が合わさって表現が完結する形式や、ひたすら続いていく絵巻物や、建物と一体化した壁画や屏風絵などに強く惹かれていました。このようなやり方は一枚の絵よりも、より過剰に虚構のリアリティ(もしくはリアリティに至るための虚構装置)を求めたときにはとても有効な方法だと思えます。
表現はそれが生成されるためのバックボーンを必要とします。日常がリアルな現実的強度に晒されているような世界では(狩猟採集時代とか)生活そのものがバックボーンとなるでしょう。でも現代のように現実的強度そのものが虚構的にしか生成されないような状況では、日常は表現のためのバックボーンにはなりません。そのような状況でバックボーンとなり得るのは、おそらく「病気」だけです。
(でも普通に使われている言葉としての「病気」では限界があります。そのように言ってしまうと表現とは「不幸」なものの特権となってしまうでしょう。たぶん病気とか不幸などの言葉を再定義する必要があるのです。もしくは病気や不幸に別の名前を与えるべきです)
「病気」をバックボーンとした表現は、「一枚の絵」ではない「ある世界に属した絵」に変化します。そこでのある世界とは表現者にとっての「何もかも」です。つまり個人がそれぞれに於いてキリスト教的世界観やら、狩猟採集時代的日常性やらに変わるような世界をを再構築するようなことになるのです。


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