コンピュータを使うようになってから自分の部屋や机に無頓着になっている。最近は特にひどい。
デスクトップが散らかっていると気になるのに、机が散らかっていても気にならない。これはどう考えてもいいことのようには思えない。サイトの制作やデジタルで絵を描くことやプログラムを覚えようとしたのは自分の意志だ。だからそれが生活の中心になることは少しも不思議ではないけれど、自分という存在はマシンの外にあって、そこで食べたり出したり座ったり眠ったりしているのであって、それが快適に出来ない状況では、やりたいことだってまともに出来るわけがない。わかってるんだけど、どうにも「現実」がリアルに感じられなくなっているようだ。こんなのはただの依存に過ぎない。ゲームをしているのと同じだ。要するにゲームにハマっているのである。
五年ぐらい前に初めてマシンを買おうと決心したときに、その決め手になったのは3Dをやってみたいということだった。コンピュータで絵を描こうなんてことは、せいぜいスキャニング画像の加工ぐらいでほとんど考えていなかった。どうしても作品として提示できるようなものがコンピュータで作れるなどとは思えなかったのだ。(実際その頃のマシンの性能では、よっぽど金をかけない限り作品に出来るようなデータサイズを扱えなかったというのも事実だ)
今はどうかというと、状況は一変している。マシンは速くなってでかいデータもかなり楽に扱えるようになり、プリンタも高性能になってデジタルデータに新しい出力分野を作り出した。ネットも高速になり昔ほどにはデータサイズを気にしなくてもよくなったし、なによりも利用者が圧倒的に増えている。スピードは現実を変質させる。車がそうであったように。これは良いとか悪いとか以前の事実だ。自分はと言うとそのスピードを利用して何事かをやろうとしているらしい。それも事実だ。肯定、否定の如何に関わらず。
ぼくは絵を描く。ぼくは描いた絵を見せる。ぼくはその絵で商売をする。スピードを利用して。ぼくはキャンバスを買う必要が無く、ぼくは画廊と契約して金を払う必要が無く、ぼくは店舗を借りる必要がない。スピードのおかげで。その代わりに、ぼくは速いマシンを買い、ウェブサイトを運営し、プリンタを購入する。それがスピードを利用することの代償だ。そしてその代償には自分の机に無頓着になることや、メールや掲示板が気になってしょうがないことや、その他諸々のつまらない気がかりも含まれている。この代償が見合ったものかどうかは今のところわからないしどうでもいい。何故ならそれが自分にとって新しいものであるが故に楽しんでもいるからだ。
でも一つ気になることがある。絵を見せる場所としてウェブ、というかモニターはチープすぎるし、つまらなさすぎる。これがいまだにスピードが遅いせいなのかははっきりとは出来ないけど(画面解像度とか、処理能力とか)、少なくとも現状がつまらないということは確かなことだ。モニターを最終出力として考えるなんてことは絵に限っては不可能なぐらい魅力がない。今あるメリットといえば、すぐに見られる、いろんな人のものが居ながらにして見られる、という「便利」以上のメリットは無いんじゃないだろうか。だってたとえデジタルデータの絵であっても、プリントしたものを見たりすると、そっちの方がぜんぜん魅力的に見えてしまう。
今自分がプログラムにこだわっている理由って実はこの辺にあるんじゃないかと思っている。モニターにはモニターに相応しい表現形式があるはずだ。それはたぶん額縁やタイトルのようなものなんだと思っている。ある表現を横断(楽しむ、もしくは観賞)するための仕掛として、ゲームのようなプログラムが必要なんじゃないかということだ。本という形がなかったら小説がなかったように、入力装置を備えたモニターだからこそ、そこから生まれる表現形式があるはずだ。
そんなわけで不健全な依存生活はまだまだ続きそうです。
Comments
わーん 子泣きじじい
全然「楽」じゃねぇw
「悲しみは忌むべきも
迂回の回路は入り組ん
俺は何一つあなたに対
サクバさんの言ってい
ラレコ: 映画につい
もとの絵の解像度が1
言葉や文字は必要なも
映画観てないけど、