←夢の終わり レンズ遊び→

20030423: 未来

初めてコンピュータを意識したのは10年ぐらい前のことです。たまたまキャノンに勤めている知り合いの人がいてマッキントッシュに触らせてもらった。その時の一番の興味はカラーコピーだったのだけど、画像補正するためにマックが接続されていたのです。ちょうどカラーコピーが一般化し始めた頃で値段は300万円ぐらいだった。僕はスキャナーとしてのカラーコピーの威力を試してみたくて、自分で作った人形とかシダの葉っぱとか花とか流木を持参していそいそと出かけていったのです。コピー機の上でジオラマ風に素材を並べコピーを取る。そして次の瞬間には並べたイメージがプリントとして吐き出される。とんでもなく興奮してサルのように繰り返したものです。そしてそこに当時1000万ぐらいするシステムとしてコンピュータが接続されていたのです。しっかりフォトショップがインストールさていて、自分のスキャニングしたイメージをいじくり回した日には、興奮しまくりのお祭り状態になってしまったのは言うまでもありません。

今や200GBのストレージが普通にお安い値段で買える時代。あれからたった10年です。そんでもってこの調子であと10年ぐらい経つとテラバイトのハードディスク付き入出力通信機器(ビデオカメラとカメラとレコーダーとムービープレイヤーと音声プレイヤーと電話が合体した奴)が当たり前になって小学生が誕生日にトイザラスに行っておねだりするようになるんだね。なるんだよ。それが20年後だろうと5年後だろうと、とにかくそうなるのよ。

そんでここからが本題。

それがいったい何なのでしょ?

これは未来の話じゃない。今の話です。SFなんかじゃない。ISDNとADSLの違い程度のちょっとした違いに過ぎない。もっと言ってしまえば蒸気機関と内燃機関程度の「ちょっとした」違いに過ぎない。未来は全てここにある。未来にならないと手に入らないものなんてない。未来にならないと手に入らないものは、たぶん、もっと別の場所にある。それはおそらく体が成長したり、歳をとったりすることです。内側の未来。内側の未来だけがリアルを規定する。でも僕は外側の未来幻想に向かう欲望を否定しない。何故ならそれに振り回されているから。精算はしたいけど、強引に精算するのは嘘つきです。そういう嘘は一番嫌い。精算は出来るときにするべきだと思う。

デジタルという手法は哲学的です。認識という名の社会性の外在化としては、曖昧さを許さないという点においてとても面白い。幻想が入る余地がないのです。そこには単純であるが故のピュアなパワーを感じる。なんだか偉そうなことをいってるけど、とにかく自分の気持ちとしては夢の終わりが見たいのです。「夢」から解放されたい。「夢」を見るのを止めたい。でも愚かに「夢」否定したら、永遠に「夢」から覚めることが出来ないことだけははっきりしています。夢の終わりは夢の中で起きた気になることではなく、ほんとの「目覚め」によってしか実現しない。しかし嘘吐きでないように目覚めるのは思ったよりも難しいみたいです。

Trackbacks(0)

Trackbacks URL: /376

Comment

Powered by Movable Type

Profile

Archive

Feeds