June 2004Archive

買い物話は興味ない人にはつまらないことこの上ないと思う。まず自分がそう思う。ある意味ただの内輪話なんだ。とは言っても今時、内輪話のコミュニティ以外に何があるの?ってぐらいどこへ行っても内輪話が溢れかえっている。善し悪しは別として、それが今だといってもいいぐらい。大きな内輪話と小さな内輪話があるだけで、どこまで行っても内輪話。文句があるのかどうかもわからないんだけど、こういうナンチャって少数民族の集合というのは世界規模で浸透しつつあって、それは新たなリアリティの定義なのかもしれないし、言語と価値の解体による脱出口への模索なのかもしれないし、あるいはただの気晴らしのためのヌルイ遊戯なのかもしれない。何が正しかったかは後になってみればわかることなのでどうでもいいんだけど、今ここで違和感を感じている自分は否定できない。その違和感を忘れるようにだけは生きないようにしよう。

一日中ネットでPCのパーツ選びをしてたら疲れてしまった。BBSの方に買おうかと思っているリストを貼ったけど、ちょっと高いなぁ。もう1ランク落とすかも。

プレゼント企画なのですが、ガラージュ私家版はプレゼントに入ります。それと既に購入してくれた人やゲームには興味がない人もいると思うので、そういう人用に絵を何枚か入れるつもりです。当選数は全部で10人ぐらいの予定。抽選方法のアイデアや希望賞品がもしあれば教えてください。反映できるかもしれないので。

ところでガラージュ私家版の申し込みはそろそろ落ちついてきてはいるんですが、いまだにほぼ毎日注文が入ってきています。この企画についてはビックリしてばかりなんですが、これも驚きです。冗談で毎日一個売れてくれれば路頭に迷うことはないね、なんて言ってしまうぐらい。まあガラージュでそんなことが起きることは100%ないわけですが、そんな風にしたいと考えているのは事実で、これはキネガワ堂の新企画としてまた試してみようと思っています。キーワードはプロダクツ。プロダクツという表現が相応しいと感じてもらえるような作品です。

きのう、いざPCをゲットするぜ!と秋葉原に行ったのだが、結局買ってきたのは今あるMac用のメモリやら拡張カードだった。Macは印刷仕事には欠かせないので、こっちはこっちでそれなりにしておきたいというのもあって、買うつもりではいたのさ。で、PCの方は中身のプランはほぼ決まって、後はがわだけだなぁ、と思って、いいのがあったら即決のつもりだったんだが、めげて帰ってきたというわけ。もう悩みたくないので通販で買うかなぁ。見に行くと逆に決められないかもだよ。何だっていいとか言っておきながら、ごねているアホなやつ。

ちょっと前にも書いたけど、Windowsのマシンを手に入れようと思っている。理由は、ネットに関わったり、モノを売ろうと思ったりすると、どうしたってWindows環境がないと不便すぎるからだ。[ru]を作るときもそうだったし、ガラージュ私家版を作るときもイヤって程思い知らされた。それがなければ何も考えずにG5買ってます。出来ることなら触りたくないぐらいです。でもまあそれは良し。とにかく手に入れることに決めたのよ。

ものは出来合いでも自作でも何でもいいんだけど、なんでPCのケースっていうのはあんなに幼いデザインばかりなんだ?もうちっとやりようはあるだろうって気がするんだけど、どれもこれもそそられないこと甚だしい。せっかく買うんだからもっと物欲を刺激して欲しいのに、全然ダメじゃん。別にMacを祭り上げるつもりはないんだけど、G5とかはいい線行っているし、努力してるなぁと思うのよ。

しかしコンピュータに関しては最初から物欲とは無縁なところで始まっていて、カッコに関しては全く期待しない付き合いしかなかったんだよなぁ。いくら不本意でも選択肢がないんだから諦めるしかないという。でも、これだけいろんな人が自分でPCを組むようになって、好きな入れ物が選べるというのに今のラインナップは非道すぎると思うよ。マジで。こういう時につい自分で考えたくなる悪い癖があるんだが、今回ばかりはやりません。所詮PCだよ。使えりゃいいのさ。


話は変わるけど、気が付けば[ru]も2年目に突入していて、ガラージュも自分的には大成功で、お礼の気持ちもこめてプレゼント企画でもやろうかと思ってます。で、前回の時もそうだったんだけど、悩むのが抽選方法なんです。前回は普通に番号札を入れた箱を作って抽選したんだけど、もっと参加の要素があったりするような面白い抽選方法はないんだろうか。知ってる人いたらぜひ教えてください。

モノクロ写真が表現できることと、カラー写真が表現できることと、絵が表現できることについて、なんとなく思いついた。あくまでも俺の個人的納得の範囲なんだけど、モノクロ写真は質感を生かすようなライティングが魅力的に見えて、カラー写真は質感よりも色がコントロールされてそれが表現に結びついている方が魅力的に見える。で、色でも勝負しつつ質感も生かしたい時や、その逆みたいな場合には、写真だったらシャッターを押した後の加工(手彩色するとか、カラーでありながら質感寄りに色補正を掛けるとか)が必要になるように思う。つまり、ナチュラルを求めたら主観に近づくことは出来ないというか、リアリティというのはそんなものだというか、そういうジレンマが写真という手段にはあるような気がしてしまう。といっても、ここで言っているのは他にもある写真ならではの表現の可能性の部分を無視して言っているんで、別に写真という表現自体の規定をしたいと思っているわけじゃないです。

で、絵の場合は、最初から仕上がりに向けて進んでいくので、どのような場合であれ作業手順的な断絶は起きない。まず結果なりエモーションのビジョンがあって、全てはそこから始まる。これって美しい。もちろんここで比較しているようなことは、比較すべきではないような要素も含まれているんだけど(絵にはシャッターを押すこととは比べものにならないぐらいの生理的な快感があったり、それも込みの上での絵の価値だったりもするわけで)、一つの側面としてはこういうことも言えるかなと思った。なんでこんな事を書こうと思ったのかはいまいちよくわからないんだけど、たぶん写真というメディアの、「伝達」「記録」という部分と「表現」という部分の間にある、あまり面白くない段差について、その違和感を解消したかったんだろうなという気がした。

040614.jpg思いつくままにダラダラと一本描いてみた。う?ん、今ひとつな感じ。塔って機能が凄く明確か、じゃなかったら凄く不明確なのが魅力的な感じがする。なんでもそうか。なんでもそうだな。ところで塔の数え方ってのはあるんだろうか?一本、二本?灯台が一本建っていました、って言う?一軒じゃしっくりこないし、一棟ってのもよそよそしい。灯台は一台とか火の見やぐらは一やぐらとか……、言わないな、やっぱり。ひとり、ふたりとかだったらかっこいい。「日本には1500人の灯台と3万人の火の見やぐらが建っています」………風が吹いてそうでイイ感じ。

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