September 2004Archive

演劇的なゲームを作ってみたいと思った。
じゃあ、俺が考える演劇的とはいかなるものかと思った。

1・ひとつのシーン(ステージ)に高密度な情報が詰め込まれていて、そのシーンが頭から離れなくぐらい空間の意図が明確じゃないといけない。

2・その高密度なステージは画像としての完成度を備えていなくてはならない。

3・時間、もしくは記述(主観的であれ三人称的であれ)のコントロールは、ステージの画像としての可能性に従わなくてはならない(逆に言えばステージは記述を助けることはあってもそれを阻害するようであってはならない)。

4・空間は三次元的に構築され、なおかつ記述も三次元的な空間を生かしたものでなくてはならない。

なんかよくわからない定義だけど、そんな感じだ。映画は表面的には舞台という箱を無視することによってその自由を獲得したわけだけど、舞台が持つ抽象性と言うか、虚構として不自由があるが故の強靭さは、これまたわかりにくい例えかもしれないけど、「子供の遊戯」に近い感じがするのだ。ヴァーチャルが非虚構を目指しているとするならば(実はそれは表現の一形態にすぎないとも思えるのだけど)、舞台という箱は、演劇という記述は、儀式に近いような、つまり虚構を虚構として利用することによって虚構が本来持っている力を解き放とうとするような「遊戯」のより本質に近いあり方に思えるのだ。

単純で自分の手に届くもので何とかできるって、それだけで凄い価値だと思う。

040929.jpg舞台装置が好きだ。
箱の中で完結しているとこがたまらない。別に舞台でなくてもいい。標本箱でもドールハウスでも切り取られた空間の中に成立する世界が魅力的なのだ。その中には物語がある場合もあるし、凍結した詩のようなものが封じもめられている場合もある。どちらも魅力的だ。

ゲームもまた箱のようなものだ。将棋やオセロ、パチンコやピンボールやスロットマシン、人生ゲームやコビットゲーム、そしてもちろんコンピュータゲームも。

考えてみれば絵もまた切り取られた世界だ。多くの現代美術は箱を「制限」として取り払おうと努力したけど、本質的には箱は取り払うことは不可能だろう。なぜなら、人が箱だからだ。箱を取り払ったように「他人に感じさせる」ことは可能でも、本人が箱から出ることは困難だ。むしろ、箱を通してしか箱から出ることは不可能なのではないかとさえ思える。

箱は入れ物であると同時に、出口にもなり得るものだと思いたい。

唐突なことを怖いと思うことはたくさんある。ホラー映画で予想できないような音量で効果音を鳴らしたりするのもそれが怖いからだ。

唐突だということは、過剰に「いきなり」だということだ。どんな時に過剰だと思うかといえば、どこかに受け入れなり興味なりの準備があるにもかかわらず、その能動的な思いが無意識下で排除されるような対象に対してそれは過剰となる。そして恐怖なり笑いなり怒りなりの感情を呼び起こす。

まず感情が一番表に出てしまうんだ。そんなときには。それを武器にしていろんな表現や商売が生まれ、延々と引き継がれていく。ある意味人が恐れ、もしくは忘れている、そういう感情、ないしは無意識は、ネタとカネの宝庫だ。だからなんだってわけじゃない。ただ、つまらないことで驚かされたり笑わせられたくない。いや、笑ったりしちゃうんだけど、されたくないんだ。

人に必要な過剰は、それぞれの人が一番知っている。余計な過剰はよくわかっていることを鈍らせる。それはあまり気持ちいいものじゃない。でも、過剰なんて何でも一緒だという気持ちもある。そんなものに振り回され方が悪い、という気持ちもある。だけどひとつはっきりしているのは、いま受け入れられるものは全てではない、ということだ。そこには何の問題もない。

040926.jpg「紅虎餃子房」という店で麻婆豆腐を注文したら、真っ黒でコクがあってしかも辛くて、とても美味しかったのだ。
「いつも食っているのとぜんぜん違うじゃん」
というわけで、どうやって作るんだ?と気になってしょうがなくなり、あれこれ調べてみたというわけです。

豆鼓という黒い豆が決め手らしいということはわかった。あとは山椒(花椒という中国製のやつを使う。これがすぅーとした辛さでうまい)をたっぷり。最初は肉をよおく炒めた後に豆板醤や甜麺醤などを入れてさらによく炒めるとか。

一通りの材料をそろえてやってみた。かなり近づいたしとてもウマイ。でもまだ違うんだなぁ。真っ黒にもならないしなぁ。もうちょっと独自路線で研究しないとだめかも。

夜になって雨が降ってきた
夜になって雨が降ってきた
夜になって雨が降ってきた

急に涼しくなった

急だなぁ

秋雨前線が降りてきて
冷たい空気も降りてきたんだ
ということを
テレビで見たので
それが起きたんだと思った

これからどんどん涼しくなってくんだなぁ

草の虫もたくさん鳴き始めたし

草の虫は木の虫が木に近いよりも
草に近い
見た目が似ているだけも知れないけど
そんな風に思ってしまう
そしてそれは秋っぽい

意味わかんないけど
出来事がそんな風にまぎれるのは
秋っぽい感じが
なぜかする

秋は分解の季節
だからだな

せいぜい生きたエネルギーの残骸が
分解されるんだ
冬も生きる生き物は
それを感じてせいせいするんだ

なんでせいせいするかといえば
一人ぼっちに近づくからだ
勢いだけでうるさかったものは消え
どうにかしなくてはいけないものだけが
どうにかしようとする季節だ

今年は彼岸花の写真をアップしなかった
見たけど

そんな風に小さなことが変わっていく
その思いはセンチメンタルかもしれないけど
それだけじゃない

このサイトのこの文章を書くことで
いろんなことを復習できた

復習は必要なとき以外は必要ない

ああ、そうなんだよ
必要ないことがもっとわかったほうがいい

そぎ落とすことのリアルに
もっと向き合わないと

与えることも求愛だとすれば、愛の定義はずっとスッキリする。気になってしょうがないのは定義なんだ。

愛は行為ではなく状態である。もう少し正確にいうと行為が作り出した流動的な状態である。この定義だと自分的にはとても納得がいく。そしてこの定義を当てはめてみると、彼が彼女に「愛しているよ」というのは用法として間違っている。それはただの求愛宣言に過ぎないので「好きだよ」とか「たまらないぜ」とか「やらせてくれ」とか「おまえはなんてかわいいんだ」とかのほうが正しい。愛は生まれたり存在したりはするけど、個体が自己完結的に実行できるものではないからだ。それは愛しているんじゃなくてオナニーしているといった方が正しい。そしてオナニーだって求愛行動だ。

また、この定義に従えば愛はどこにだって存在する。光合成だって愛だし核分裂だって愛だ。秋の大運動会も春のお遊戯会も愛だ。格闘技もスピードレースも愛だ。絵を描くことだって愛だ。でも定義としては全然不十分だな。だって、不毛かどうか、コミュニケーションが成立したかどうかという価値の定義がまったくされていない。定義してみたのはジャンルだけだ。いっそのこと不毛なことなんて存在しない、といってもいいし、その言い方でいえば戦争だって大量絶滅だって愛なわけで、それはそれで正しい気もするんだが、そんな風に簡単にアナーキーになって格好良くなってしまうのはどうも気にいらない。でもこれ以上考えるのは危険そうなのでやめとこ。

求めることと与えることの違いがよくわからない。もちろん不毛な要求と実を結ぶ要求の違いがあることぐらい知っているし、不毛な贈与と実を結ぶ贈与の違いがあることだって知っている。だとすれば問題になるのは、そこにコミュニケーションが成立したかどうかであって、それが求める行為であったか与える行為であったかの違いなんてたいしたことではないのではないかと思えてくる。いったいその二つにどんな違いがあるんだ?実を結ぶ行為はどんなものでも無償の行為に決まっているのに。

もちろん、俺は愛について考えてみようと試みているんだぜ。ちょっと興味がわいたんだ。たぶん俺が馬鹿で、与えることだけが愛だと信じ込まされてきたせいなのかもしれないが、求めるもののいないところに与えることが存在できないように、与えるもののいないところに求めるものが存在できないように、そんなのはただの不毛な与えたがりの暴力に過ぎないということがなぜこうも隠蔽されるのかと腹を立てているんだ。

問題にすべきは、それが不毛かどうかであって要求か贈与であるかではない。だとすれば「求愛」という言葉は間違っている。愛を求めるのは愛を持っていないものがすることであって、求愛するものが持っていないのは、愛ではなく、入れるべき穴であったり、優しく頭をなでる手であったりするだけだからだ。

愛という概念を個人から引き離して考えればもっとうまく行く。愛とはひとつの可能性である。それは持ち物ではなく、それが実現したときにのみ実現された時間において感じることが出来るものである。と、ここまで書いたら「なぁんだ」って気がしてきた。誰かの内側に愛があると思っていた俺が馬鹿だったんじゃん。求愛という言葉だっていいとこあるじゃん。

なんか俺なんてずっと愛に生きてきたんじゃないの?って気がしてきた。どっちでもいいけど。しかしこんな言葉をよく20代ぐらいの男が歌にして歌えるよなぁ。商売だって言ってしまえばそれまでだけど、いったいどこまで本気なんだ?そっちのほうがどうでもいいけどさ。

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