October 2004Archive

うわさではPM-4000PXの後継機種は別で出るらしい。半年ぐらい先だとか。そのときはさすがに買い換えないと駄目かもだな。あくまでもうわさ。

でも、この機種は手差しプリントが出来たり、発色も落ち着いていて綺麗だったり、後はとにかく顔料インクが使える唯一のA3プリンタだったこともあって他に選択肢の無い愛着のある機種だった。充分元は取ったけどね。7万以上出してしかもローンで買ったのに今じゃ4万切ってるよ。

ところでプリンタといえばこの何年かずっとレーザープリンタが欲しいと思っている。でも印刷品質がなかなか思っているようには向上してくれない。ベタが汚いんだよね。いろんな諧調が混ざっているような画像は綺麗に出力できるんだけど。使い道はアートブックみたいな小部数出版。インクジェットが今の何十倍も早くなってくれればそれの方がいいんだけど、それはまだ相当待たないと駄目だろうから、レーザーはやっぱり魅力的なのです。

きのう書いた新しいプリンタEPSON PX-G5000だけど、イイ事ばかりでもなさそうだ。

まず、8色インクといっているけど、実際に使うのは7色(フォトブラックとマットブラックを使い分ける。これはウチのも一緒)で、その上1色はグロスオプティマイザといって光沢感を出すための無色透明インク。ということは色調表現に使われるインクは6色ということになる。ウチのはこれにプラス、グレーインクがあるので色調表現に限って考えるとPM4000PXのほうが上ということもあるかもしれない。少なくともモノクロ的な表現では充分にそういうことも考えられる。

次に耐光性の問題だけど、耐光性がシビアに要求されるのはグロス感の強い光沢紙に印刷したときだ。ところがウチで使うのはマットで、しかも水彩紙みたいなボコボコした紙ばかり。そしてカタログ上の数値を見る限りでは耐オゾン性はどちらのプリンタも30年だ。これはどういうことだろう?ひょっとするとグロスオプティマイザ(これはオンオフできる)を使用しないでマット紙に印刷した場合は耐光性が変わらないなんてこともあったりするかもしれない。確かめてみないことには分からないけど。

残るメリットはというと、インクの大きさと印刷スピードだ。印刷スピードは文句無く速い。で、インクの大きさはEPSONの場合印刷解像度によって変わる。そしてこれは用紙によって決められる。マット紙を選んだ場合は、最高解像度は選べないので、ひょっとすると粒状感に変化が無いということも考えられる。

全体的に見て光沢紙のカラー写真出力で考えると迷わず買い、というのがこのプリンタの特徴みたいだ。まあ、その需要が一番多いわけだから納得だけど。ウチの場合は出力結果を見るとかして検討の余地アリだな。プリンタを変えるというのはウチの場合かなりのリスクがある。だってモニタの調整もプリント出力に近づけてあるし、ドライバとかが変わると色が変わってしまうこともあるので、最悪もとのデータを新しいプリンタに合わせて変えなくてはならないなんてことも起きかねないし、それは出来れば避けたい。

ウチで使っているプリンタ新型がついに出てしまった。随分長いことモデルチェンジしていなかったから、もったほうなんだろうな。11/12発売だって。

内容を見てみると、耐光性が約二倍の80年(ウチのだって最初は200年と書かれていたんだけど、計測基準が変わったのか今は45年と表記されている)、ドット間隔も2880dpiから5760dpi。インクの大きさも半分以下になっている。そして光沢顔料インクというのをウリにしているらしくて、ツルツルした紙でもいけるみたいだ(4000PXで光沢紙印刷をするときはエプソンの純正紙を使わないでCANNONかPictricoの光沢紙を使うと良い。コーティングが違うのでインクの乾きが遅くても引きずらない)。

プリントを売り物にしている身としてはすぐにでも買うべきなんだろうけど、おいそれとは手が出ないよ。どれぐらい違うんだろうなぁ。画質は今のプリンタでもかなりいいと思っているんだけど(プリントの出来を左右するのは、プリンタの描画性能よりも、プリント前のデータ調整だ。これはほんとに身にしみた)、耐光性がこれだけ違うのは痛い。しかし今のプリンタはついこの間修理に出して帰ってきたばかりだよ。しかもたぶんどうみても新品だと思うよ、これ。やれやれ。デジタル機器の進化が早いのは分かっているけど、プリントみたいなアナログへの出力はハードの能力がそのまま反映されるから付いていくのが大変だ。でも考えてみたら、キネガワ堂を始めたのもあのプリンタが発売になったからというのが一番大きな理由だった。「これでやっと売り物に耐えるプリントが自分で出来る」と随分喜んだもんだ。それがさらに進化したわけだから素直に喜ぶべきなんだろうな。

湯本香樹実という人の書いた「ポプラの秋」という本を読んだ。素直できれいな文章を書く人だなぁと思った。このところ吉本ばななとかその他にも何人かの女の人の書いた本を読んだんだけど、この人の文章には焦りがなくて好感を持った。人のことを言えたようなもんじゃないけど、焦っている文章は駄目だ。絵で焦っているのも駄目だけど、文章で焦っているのは時間が関わってくるものだけに始末が悪い。やはり文章には「語り」とか「歌」の部分があって、それはとても重要なのだ。焦っていると時間が台無しになる。これは映画にも言えるな。歌として映画を作れる監督って、実はそれが一番大事なのに、実現できる人ってとても少ない。日本映画を見ているとそれで悲しくなることがとても多いので残念だ。焦っているんだよなぁ。

で、「ポプラの秋」、いいお話でした。ただのいいお話としてではなくてちゃんと終わらせている。印象としては小品という感じだけど、読んだ後に散歩に行きたいような気持ちになる。

このところ割と(いつもか…)饒舌気味なサクバですが、これは明らかに本を読んだり映画を見たりしているせいです。つまりウンコの再生産をしているわけです。俺の書く文章はほったらかしだったり、端折ったり、なげやりだったりして、プロ的な意識はほとんどなくて、たまに本気の文章が必要になると、思い出したように他人の文章を読んだりするのです。でもそれは、いきなり勉強を始めるようなそういう感じでもなく、努力をしているという感じでもなく、なんかそうしたくなるからやっているだけだったりするのです。そうじゃない時はというと、まったくといっていいほど文章なんて読まないのです。小学生の低学年のころに、褒められたかったり、自慢したいがために本を読んでいたような時期があって、それ以来本を読むのはあまり好きではなくなったように思う。そしてそれは本だけじゃなく、映画や音楽や漫画や絵にさえも言えるような気がする。なんてことだ。不幸なやつ。

唯一そのような呪縛から自由だったもの。それはオモチャ、もしくは模型だ。

たった今、これを自分で書いていて、笑っちゃうけど、目から鱗が落ちた。そういえばさっきキキリに「今日は大吉です」と言われたところだった。何が分かったのかはっきりしないけど、分かってはいなくてもはっきりしたものがあった。書いてよかった。説明は、いつか出来るかも。

トヨタというのは日本で一番金を持っている会社だと人から聞いた。

電車に乗っていてぼんやりと外を眺めていた。車がたくさん走っていて、海沿いのその線からは、ひと気のない巨大な倉庫やインテリジェントビルなんかが見えた。ふと、社会っていうのはもの凄い単純なんではないかという気がしてきた。車と家と服と食い物と病気、そして気晴らし。まず、ひとりひとりのそれらを想像して、次に、それらが60億あるのだと考えてみた。なんだ、って気になった。それだけじゃん。それだけの結果がこれなんじゃん。

急に電車の中が空虚な空間に感じられた。ニセモノの箱に乗ってニセモノの景色を移動している。俺はトヨタの社内見学をしているのかもしれないと思った。上空 200メートルほどのところにはレーザー光線でトヨタの三文字が極太のゴシック体で投影されている。社内の自動車専用道路ではあらゆるユーザーを想定した耐久テストが繰り返され、何百万という社内食堂では、ハンバーガーから自炊用の豚肉から超高級中華料理まであらゆる食事が供され、使用している車種によって決められる社員住宅も木造二階建て家賃1万2000円のアパートから12LDKの一戸建てまでバリエーションに事欠かない。かくして世界はトヨタになった。が、ふと気づく。俺はトヨタを持っていないではないか。大丈夫、トヨタにぬかりなどない。いまやトヨタの開発理念には「自動車を利用しない人も車社会の一員です」というスローガンが掲げられていて、実のところ俺も「開発課精神効果調査部”トヨタ非利用者におけるトヨタ効果測定プロジェクト”に移動になったばかりなのだった。

ザ・セルという映画を見た。
猟奇的な連続殺人犯の無意識にダイブして(あるいは自分に招き入れて)事件の解決、というか犯人を主人公の女性が受け入れる(ストーリー的には殺す)までの映画・・・こんな説明じゃ何にも伝わらないな。でもまあいい。

作品は面白かったです。楽しめた。でもそれより気になったのはこういう作品が生まれる土壌についてです。デヴィッド・フィンチャーの「セブン」とか、ショボイけど「8mm」とか、「ツインピークス」とか(ここにクローネンバーグのビデオドロームも加えてもいいかもしれない)みたいな「変態」をモチーフにした映画というのはかなり作られていて、それらはどれも「外側」から見た変態映画なわけです。ホドロフスキーなんかはどちらかといえば内側からの視点がある。でもってこういうのは「カルトムービー」化していくわけだ。

外側から描写した映画はエンターテインメントになる。多くの人が知りたいと思い(動機が恐怖であれ、興味であれ、嫌悪であれ、外側からの視点があれば、それは安全なものになる)、それを知るための装置にしようと思う、それがエンターテインメントです。そして内側から作られた映画は「毒」になる。別に毒を賛美しようとは思わない。それは度々「アート」といわれたりもするけど、ちゃっちい毒ほどつまらないものは無いわけです。別の言い方をすれば毒ほどそこいらじゅうに転がっているものは無い。

と、ここまで書くと焦点は「毒」にあるらしい。つまり毒に対する態度の問題だと思えてくる。少し前に書いた愛の定義と一緒で、誰のものでもないものとして毒があり、愛の内側にいると思っている人と愛の外側にいると思っている人がいるように、毒の内と外という構図が見えてくる。そして内側だと思おうが外側だと思おうが、毒は宙吊りになっているらしいということがぼんやりと見えてくる。アクセスされ続けているのに辿り着けない状態、としての毒。そう考えるとサイコホラーってのは新たなラブストーリーのような気がしてくるのだ。で、ラブホラーという言葉を捻出してみる。強迫観念としての愛。俺の中ではアメリカという国のイメージはラブホラーにとり憑かれているように見えている。たぶんアメリカに限った話ではまったくないんだけど、それをわかりやすく体現しているように見えるんだ。

「ハードコア」というタイトルの映画があって、見たいと思いつつ機会が得られなく見ていないんだけど、ドキュメンタリー的な手法で、厳格なカトリックの家庭に育った少女が、父親の牢獄から逃げ出すためにさまざまな手段を講じた結果、ポルノ業界でサディスティックな男にボロボロにされる、というのをブルーフィルムで失踪した娘を発見した父親の視点で描くという映画らしい。この物語構造に見えてくる狭間はたぶん埋まらないのかもしれないと思っている。思いたくないんだけど。

虚構によって生み出された欠如

この文章はこの言葉が言いたかったんだ。

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