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20041025: 虚構によって生み出された欠如

ザ・セルという映画を見た。
猟奇的な連続殺人犯の無意識にダイブして(あるいは自分に招き入れて)事件の解決、というか犯人を主人公の女性が受け入れる(ストーリー的には殺す)までの映画・・・こんな説明じゃ何にも伝わらないな。でもまあいい。

作品は面白かったです。楽しめた。でもそれより気になったのはこういう作品が生まれる土壌についてです。デヴィッド・フィンチャーの「セブン」とか、ショボイけど「8mm」とか、「ツインピークス」とか(ここにクローネンバーグのビデオドロームも加えてもいいかもしれない)みたいな「変態」をモチーフにした映画というのはかなり作られていて、それらはどれも「外側」から見た変態映画なわけです。ホドロフスキーなんかはどちらかといえば内側からの視点がある。でもってこういうのは「カルトムービー」化していくわけだ。

外側から描写した映画はエンターテインメントになる。多くの人が知りたいと思い(動機が恐怖であれ、興味であれ、嫌悪であれ、外側からの視点があれば、それは安全なものになる)、それを知るための装置にしようと思う、それがエンターテインメントです。そして内側から作られた映画は「毒」になる。別に毒を賛美しようとは思わない。それは度々「アート」といわれたりもするけど、ちゃっちい毒ほどつまらないものは無いわけです。別の言い方をすれば毒ほどそこいらじゅうに転がっているものは無い。

と、ここまで書くと焦点は「毒」にあるらしい。つまり毒に対する態度の問題だと思えてくる。少し前に書いた愛の定義と一緒で、誰のものでもないものとして毒があり、愛の内側にいると思っている人と愛の外側にいると思っている人がいるように、毒の内と外という構図が見えてくる。そして内側だと思おうが外側だと思おうが、毒は宙吊りになっているらしいということがぼんやりと見えてくる。アクセスされ続けているのに辿り着けない状態、としての毒。そう考えるとサイコホラーってのは新たなラブストーリーのような気がしてくるのだ。で、ラブホラーという言葉を捻出してみる。強迫観念としての愛。俺の中ではアメリカという国のイメージはラブホラーにとり憑かれているように見えている。たぶんアメリカに限った話ではまったくないんだけど、それをわかりやすく体現しているように見えるんだ。

「ハードコア」というタイトルの映画があって、見たいと思いつつ機会が得られなく見ていないんだけど、ドキュメンタリー的な手法で、厳格なカトリックの家庭に育った少女が、父親の牢獄から逃げ出すためにさまざまな手段を講じた結果、ポルノ業界でサディスティックな男にボロボロにされる、というのをブルーフィルムで失踪した娘を発見した父親の視点で描くという映画らしい。この物語構造に見えてくる狭間はたぶん埋まらないのかもしれないと思っている。思いたくないんだけど。

虚構によって生み出された欠如

この文章はこの言葉が言いたかったんだ。

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