October 2004Archive

今日はなんか変な一日だった。いろんなものに顔を突っ込んで終わりみたいな。地震も凄かったな。人もたくさん死んでいる。

寿命や病気で死ぬより、地震やテロで死ぬ方が、明日死ぬかもしれない、という気持ちに拍車が掛かる。

死ぬときには加害者を特定しても意味が無いんだ、ということをずっと思っているところがある。死ぬのは自分だから。ほとんどのものは残されるもののためにある。だからそれがどうだってわけではない。だって、世界は、じゃなくて社会は、生きているもののためにあるんだから。

「死ぬのはいつも他人ばかり」というのは寺山修二が言ったことだけど、「生きているのは他人ばかり」といいたい。何が言いたいのかって「死に行く自分」が足りないんじゃないかと思うのだ。アミノ酸が足りないように。もっと「死に行く自分」として生きたいと思う。

何日か前に書いたZBrushという3Dソフト、我慢できずに買ってしまいました。あらら。

デモ版で遊んでいたんだけど、いいのが出来てもモデルが保存できなかったりとかして、こりゃもう買うしかないかなって感じに…
まだぜんぜん使いこなせてないんですが、やっぱりかなりスゴイです。このソフト。これだけで何でもやるっていうわけにはいかないけど(モチーフにもよりますが)、それでも十分に使う価値はある。

このソフト2.5Dペイントソフトと言われているんだけど、これを新しい2Dペイントソフトと考えてもいいかと思った。もちろん3Dデータの書き出しにも使えるわけだけど、静止画のレンダリングに限定すると出力は2Dなわけで、そういう意味では3Dロジックを使ったお絵かきツールとして考えるのもありだと思う。

しかし外国のサイトでカード決済って初めてやったけど、すんげぇ不安だった。やってみればどうってことなかったけど、オーダーボタンを押すのにドキドキしまくり。

奥ゆかしさと正しさは同じものだと思った。

だとしたら、

野蛮の無い世界は好きになれないと思った。

10/21(Thr) 16:10
ユルユルに鍛えられたケツの穴に意味があるとすれば、鍛えられた以後の経験にではなく、ユルユルになっていく過程にこそ意味があるのだ。冒険は意図の外側で不毛を目指す。なぜなら既に砂漠しかないからだ。なのに、オアシスがその歩みを留まらせる。そして、冒険は結果的に不毛を目指しても、不毛を欲しているわけでは決して無い。不毛もまた過程に過ぎないからだ。そうでないならば不毛でさえも有り得ない。優しい言葉は毒だ。

ゆうべ、携帯で書いた、今日のNEWS。
-------------------------------------

台風が来ている。ブラインドカーテンを開けると、普段は遠くの救急車の音しかしないこの出稼ぎビルの一室も激しく叩き付ける雨の音に包まれる。窓を伝う無数の水滴。それをぼんやりと眺めているとまだ小学生の頃にやはり同じように窓の外を眺めていたことを思い出した。あの時も台風が来ていた。外は昼間で、見ていたのは校庭だった。空は嘘のように暗く、薄いガラスが割れそうなほどに雨と風が騒ぎ立て、授業なんてまったくと言っていいほど聞き取れなくなってしまい、先生でさえ風と雨の狂ったような踊りに見入るしかなかった。

そして、風と雨のなかで誰もがひとりぼっちになった。それは素敵なことだった。いま起きなくてはならないことが起きているのだと感じた。いつもはニュースや映画の観客にしかなれなかったけど、これはホンモノなのだ。そう感じた。息苦しいほどの期待で胸がいっぱいになった。

…で、
いったいなにが起きたんだろう。枝が折れ道路は水浸しになり、川は氾濫したけど、なにが起きたんだろう。

小学生の心の中に小さな穴が空いたんだ、たぶん。なにもかもを吸い込んでしまえるのに、そのくせ普段は忘れてしまえるような小さな穴だ。

台風は小さな穴をたくさん空けて通り過ぎていく、次の日には忘れられても、その穴は塞がらない。それは怖くても悪い穴じゃない。その穴はホントに起きたことの証だ。

尖った痛みと交換に得られるものなんてたかが知れている。

と、自分で書いた文章の意味を二度ほど読み直して想像すると、そこには凄いことが書かれているような気がしてくる。他人事だ。上手く言えたと思えることなんて、酔っ払いの思いつきと一緒でその程度にしておくのが賢明だと思う。上手く言えることなんて何の意味も無い。実際飲んでるし。

緩くて不安を含んだ鬱陶しいヌメヌメした膜を突き破るためには何の役にも立たない。コンドームよりも始末が悪い膜に包まれてしか存在しない関係。そういえば俺が中学のころにコンドームのことをムードンコというのが流行っていた。では、この始末の悪い膜の事をムードンコと命名してもいいわけだ。社会とはムードンコによって結び付けられた遊戯である。この定義は、少なくとも尖った痛みと交換されたなにかよりは実があるように思える。

ユーモアを知らない。人を笑わせたことはあるはずだけど、それは俺が笑わせのではなくて、俺が可笑しかっただけかもしれない。さらに言えば、それは同じことかもしれない。怖いなぁ、怖いよ。結局、問題にされるのは「確信しているように見えるかどうか」もしくは「確信を確信しているかどうか」であって、実体はどこにも無い。だから尖った痛みとの交換物なんて曖昧な生理的表現に訴えかけようとするんだ。それって、狼が来たよ!ってのと同じじゃん。

卵焼きが焼けました。
カップにお湯を注いで3分間経ちました。

それだけじゃダメなのかな。
ダメなんだろうな。

でもこれから小銭を稼ぎに出かけなくてはなりません。こんな日は部屋にこもってゴソゴソしていたいところなんだけどな。

何日か前に3Dの画像に惚れたことが無いという話を書いたけど、それがくつがえされるのも時間の問題だなという感じがしてきた。

何で惚れることが出来ないような画像が多いかは分かっている。一言で言ってしまえばコントロールされていないからだ。ソフト側がする計算で良しとしてしまっている部分が多すぎるというのもあるし、作る側がそこまでのイメージを持っていないというのもあるし、「写真みたい」に見えればスゴイとされるということもある。それらは道具や既存のイメージの中でしかやっていないということであって、やりたいことがストレートに出ていないということだ。そして何でそんな風になるかといえば、なんと言っても手順が複雑すぎるからだ。

おそらく技術者じゃない人間がコンピュータで何かを表現しようとしたのって、言葉、つまり文学者が最初だろう。ワープロこそが初めて表現に役立ったコンピュータだ。その次が音楽、そしてさらに何年もたって、絵を描く人間がそれに加わった。立体を作る人間はどうだろう。工業デザインの世界では今、まさに全面的な移行が完成しようとしている。でも個人レベルで考えると(特に最終出力の問題が大きいんだけど)まだまだ難しいものがある。でも、それはもう始まっているんだなぁというのは確かに感じることが出来るところまでは来ていると思う。

もう何でもアリだなという感じもするんだけど、やっぱりまだ過渡期なのだ。リアルタイムレンダリングの3Dゲームだってまだショボショボだし、個人が3Dソフトで作ったデータをプロダクトに移し変えようとしたらそれなりの努力を強いられる。それでも、もう芽は出始めていて、なんか大きな変化が近いうちに起きるんだろうという雰囲気がプンプンしている。

きのう書いたZBrushというソフト、初めてフォトショップをいじったときの興奮を思い出した。デモ版を落としてみたんだけど、英語なのに画像ソフトを触っているような感じで何とかなってしまうというところもすごい。まだ見せられようなものは何も無いけど、そのうちちゃっかり使っているかもしれない。

« Newer ......... Older »
Powered by Movable Type

Profile

Archive

Feeds