November 2004Archive

古い音楽とかでもオーケストラや協奏曲みたいのよりも一人でやっているやつの方がぐっとくる。映画やゲームでもなるべく個人がわがままを効かせているものか、じゃなかったらほんとに一人で作っているようなものに惹かれる。いわゆるロックとかでもボーカルにリードギターにベースにドラムと来るとそれだけで萎えちゃうところがある。

作品ってのはどんなものでも本質的には個人のものなんだと思う。何千人、何万人の人がかかわろうが、たとえばサグラダファミリアはガウディの作品だしスターウォーズはルーカスの作品だ。だからオーケストラやロックバンドに好きになれないものが多いのは、ただ単純に個人の作品になっていないものが多いだけなんだろうと思う。形式しかなく一つのものに向かっていない。

人が集まると焦点がぼけやすい。焦点さえ合っていればどれだけ多くてもかまわない。そういうことだ。しかしそれでも、一人でやっていることのシンプルな美しさってのは大人数が集まったときには出せないような直接性がある。シビアで親密な直接性だ。自分の中でその直接性はあるノスタルジーに結びついているような気がする。そんなノスタルジーにしがみつくことにどんな意味があるのかは分からないけどそんなことも結構大事だったりするのだ。

チンコが出す要求というのがあって、それは生理現象だとか本能だとか言われるけど、そんなの嘘だ。チンコが出す要求の9割以上は「チンコを通したリハビリテーション」なのだ。だいたいポルノグラフィなんてものは生理現象や本能とは何の関係もない。ただ単に性的経験と結びついたリハビリテーション的方程式による箱庭療法に過ぎない。かといってそんなものだからという理由で無視できるかって言うとそんな簡単にはいかない。いくわけないじゃん。リハビリテーションへの欲求はもの凄く強力で、すれ違った女の子のおっぱいが大きいだけで目が釘付けになったり、なんだか分からないけど軟らかそうな肌色がちりばめられているだけで首が固定されたりするぐらい愚かなのだ。そんなアホなところへ言葉だの物語だのが絡んできた日にはこれこそが真実への入り口なんじゃないかとか俺は本能に忠実に生きるんだとかそりゃあもうありとあらゆる迷信と懐疑とくだらない論理と不毛と絶望と引きこもりと苦悩と悲しみと勘違いと焦燥と怒りと落胆と鬱とキチガイじみた狂喜を生み出せるヌルーイお布団が出来上がるのだ。

罪深いね。でもマンコだって同じぐらい罪深い、ということが最近(最近かよ!)分かってきた。でもマンコの話はマンコを持っている人たちがしたほうがいい、とも思うようになってきた。マンコの罪深さはチンコの罪深さとは全然違う。それは一見性的ではない。つうか性的という単語は現代社会においてはあまりにチンコ的に狭められているのでそこでは正しく流通しない。ほんとはその上に包括的に使用できるように性的という言葉があるべきなんだと思うのだけど、そんな風には使えないというのが現状だ。だからマンコの性的罪深さはたとえば文学的モチーフの宝庫だ。ガンガン発掘するべきだと思う。でもそれはマンコ達の話なので俺的には知ったこっちゃない。

まあ要するにチンコとの折り合いがつかないのだ。

どうしようーーーー!

毎年キネガワ堂で買い物してくれた人に年賀状を出しているんだけど、今年はガラージュのおかげで300枚以上出さないと駄目っぽい。有難いんだけど、こんなにたくさんの葉書は個展の案内状以外じゃ出したことないよ。年賀状なんてキネガワ堂を始める前は一枚も出していなかったんだもんなぁ。

とにかくどうにかしなきゃ。これでサボると絶対悪い癖がつく気がするし。

内田春菊の「ファザーファッカー」を読んだ。静子という女の子が16歳で家出するまでを書いた話だけど、これは怒りと憎しみと生きなければいけないという情熱だけで書かれた本だと思った。小説という形式の作品としては決し褒められたような出来じゃない。何の構成もなく生のまんま放り出したような作品だ。文体も稚拙だし、作品として成立させようという意思も希薄に感じられる。でもこの作品が持っているある暴力みたいなものは誰も否定できないと思う。おかげでとても暗い気持ちになった。これはたぶん褒めているんだと思う。

話はとにかく残酷で正直であっけない。それは正当な恨み言だ。そしていくら小説として出来が悪いといったところで、この作品に共感し、救われたり希望を見たりした人はたくさんいただろうと思う。それぐらいここに描かれている不条理な残酷さは程度の差こそあれどこにでも転がっているものだ。

こういう話が共感を呼ぶような、関係性の不毛で残酷な愚かさはホントになくなって欲しいと思う。でも、自分だってその愚かな関係性を再生産していないといえるんだろうか。言えない。絶対言えない。だってあまりに自分が恥ずかしくて胸を潰したくなるようなことなんていまだにあるよ。そういう一番属したくない愚かさが目を背けたくなるぐらい生のままに置いてある。そのように宣言をする必要があったからだ。そしてその宣言はどんな形であれ誰もが一度はしなくてはならない宣言なのだ。

望遠鏡ってのは不公平なアイテムだと思った。見られている人からは小さくしか見えないのに、見ている人は大きく見える。でももっと言ってしまえば、道具というのは全て不公平だ。道具は持っている人と持っていない人を使える人と使えない人を届かないぐらいに隔てる。

言葉を使える人と使えない人、核兵器を持っている人と持っていない人、ネットに繋がっている人と繋がっていない人、学校に行っている人と行っていない人、知識を持っている人と持っていない人、車に乗れる人と乗れない人、お金を持っている人と持っていない人…

そして、子供や負けず嫌いな人は全部を得ようとするし、敗北感を味わったり疲れた人は得るのをあきらめるし、興味ない人や怖がる人は無視するし、憎しみにとらわれたり嫉妬に駆られた人は奪おうとする。

それでも人間は道具を使う。絶対使う。使わない人間なんて想像できない。お姫様のキラキラも職人の技も戦争の悲惨も美味しいご飯もあったかいベッドも病気のときの薬も楽しい映画も美しい音楽も全部不公平な道具のおかげだ。

子供の無邪気な万能感がなくならないように敗北感も疲れも無関心も恐れも憎しみも嫉妬もなくならない。つまり、道具は不公平であり続ける。いくら道具が使い方次第だといったところで、道具が不公平に使われるということはなくならないのだと思う。

万能感は賛美されたりもするけど、それだって充分人を傷つけ得るものだ。傷ついたり恥を感じたりすることを当たり前のことには出来ないんだろうか。自分の敗北感や疲れや無関心や恐れや憎しみや嫉妬を隠すように生きるから、目の前の人から逃げ出した能面のような政治家ヅラが出来るんだ。

道具なんて不公平なものだ。それでいい。自分に起きたことが自分で解決できれば、そこに起きる不公平は正しい不公平になる。それは起きなくてはいけない不公平になる。とはいったってそれは不公平なわけだから、つらいことだってあるし、ムカつくことだってあるし、卑怯な優越感だってあるし、悔やみきれない後悔だってある。そういうものがなくなるわけじゃない。ただ、その不公平は権力とは無関係だってことが重要なんだ。

と、ここまで書いて、俺は権力の意味を理解していないということが分かった。つまり俺は権力という道具を持っていないのだ。権力って何だ?まあ、いいや。俺のイメージの中では手を伸ばせば触れるとこには権力は存在しない。権力はテレビの中や請求書の中や健康保険証の中にある。つまり、わけが分からないのに、それに捨てられたら自分が困るかもしれないと思うもの、それが権力だ。そしてどんなに工夫を凝らしても公平では有り得ないもの、それが権力だ。

権力の外側ならどんなに不公平だっていい。それは納得できるし、もしそれが納得できなかったらそのために努力したい。そういう不公平はもっともっと太陽の下に晒して当たり前のことにしなくちゃいけないんだ。

11/24(Wed) 13:10
勝手に思いついた権力の定義。

双方向的であると見せかけて実は一方的である関係性。またその関係性において、見せかけた側は見せかけられた側の生存においてその意思や能力の有無にかかわらず保護しようとする行動をとる。結果は推して知るべし。

041121.jpg" ゆりかもめ"に初めて乗った。楽しいな、あれ。遊園地っぽい。橋の手前がループになっていたり自動車と一緒にレインボーブリッジ渡ったり、周りに建っている建物もうそ臭いデザインの建物がいっぱいで万国博覧会みたいだ。一番後ろの窓にへばりついてキャッキャッしてました。

で、何しに行ったかというとコミティアというイベントを見に行ったのです。会場の中は人ごみでむんむんしてました。そしてブースの数にびっくり。1500ぐらいある。日本全国から集まってきた漫画を描く人やグッズを作る人達です。こんなにいるのかって感じでしたが、これと似たイベントでコミケというのはこれの何倍も凄いらしい。さらに地方でもこの手のイベントがたくさんあるらしい。いったいどれだけの人がこの手のイベントに参加していて、どれだけの作品が作られていて、どれだけの本が売られているんだろうと想像すると気が遠くなりそうです。

中身はピンからキリまでいろいろだけどなんつうか凄いパワーだわ。終了時間になってみんな拍手をしていたのが印象的だったな。そういうものなのか、って感じで。自分たちが作り上げているんだっていう連帯感みたいなのがあるんだろうなぁ。

8Mileを見た。エミネム主演の映画。
久々に正しいやくざ映画を見た感じ。北野武の作品を見た感じに近い。つってもあそこまでは生ではないけど。

どうも下町以下のスラム育ちなんで貧乏映画に惹かれちゃう。貧しさってのは確かに近代以降のキャラクターだ。絶対そうだ。それ以前の貧しさは武器に出来ない優しさに包まれている。洒落にならないぐらい。洒落にならない貧しさはもはやファンタジー、で、あるゆえに、フィクショナル、な貧しさの、ゆるいこわさが、満ちてくる潮のようにぶきみだ、んだ、だ。かんたん、に、はずれる、ことができる、ことがどんなに、ガキのガキのガキの、めにこわいか、こわい、こわいんだよ、くだらない、のに、さいてい、な、こわいなんて、さいてい

11/21(Sun) 4:43
センシティブで無防備なカットアップ!!!!
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