December 2004Archive

041231.jpgトップを年末年始仕様にした。
20歳ぐらいのときに描いた絵の使い回しです。でも気分はこんな感じ。

今年は自分の作品作りにはほとんど時間が割けなかったけど、まあ、いろいろやった。一番大きかったのがガラージュが販売に漕ぎ着けたこと。自分的にもやっと区切りがつけられた。一年の前半はほとんどこれに費やしたようなものだ。クソ忙しい中でよくこなしたものだと思う。予想以上にたくさんの人の手に渡ったわけだけど、楽しんでもらえているだろうか。ちょっと心配。

後半はこれまでには使っていなかったWindows環境に振り回された感じ。なんでこんなに振り回されるのか自分でも分からない。使えないというわけじゃないし、今までやってきたようなことだって普通に移行できたわけだけど、あれこれあれこれいじり倒してしまう。落ち着くまでにはまだ時間がかかりそうだ。それと平行して、遊びに行ったり、本を大量に読んだり、映画をたくさん見たりした。気がついたら他人の作ったものをほとんど観たりしていなかった。ネットを除いては。どっかで欠乏を感じていたのかもしれないな。そしてそんなことをしているうちに今年ももうおしまい。

あ、年賀状はこれから書くんで、元旦には届かないです。

では、今年一年、応援とか、お買い物とか、チェックとか、ホントありがとうございました!
来年もよろしく!

東京は明け方から雨が降り始め、やがてみぞれに変わった。コンビニでビニール傘を買って駅まで歩き、電車に乗っていると川面には湯気が立っていた。冬らしい朝だ。なんだか懐かしい気持ちになる。家についてお湯を沸かす。ウィスキーをお湯で割って飲もう。するとみぞれは雪に変わっていた。静かな一日になりそうだ。

きのう東京の飯田橋というところで忘年会があった。俺はバイトの夜勤明けで、その上一時間ぐらいしか寝ていなかったのだが、そのまま寝ないで出掛けていったのだ。お開きにしたのは何時ぐらいだったのだろう。10時とかそんなぐらいだったと思う。でもとにかく目を覚ますと中野という駅だった。しかも終電。中野というのは自分の家とは正反対の方向で、しかもかなり遠い。時間は午前1時30分ぐらいだった。どうすっか。困ったな。途中4回ぐらい乗換えをしていたような気がするのだがよく思い出せない。でも酔っ払いなので、まあ歩いて帰ればいっか、などと思ってしまったのだ。

ふらつく足取りで歩き始める。すると高円寺というところに着いた。あれ、これはひょっとして、と思い家に電話をかけてみた。「高円寺って家から遠い?」と聞くために。反対方向だといわれた。そんなバカなと思ってコンビニに入って地図を見てみると確かに遠ざかっている。なんてこった。でもやっぱり酔っ払いなので、まあいっかとなって、引き返した。今度は順調だ。大久保通り、ああ、知ってる、知ってる。この道まっすぐ行けば大丈夫だ。新大久保のコンビニで肉まんとあったかい生茶とウィスキーのポケットボトルを買う。肉まんはかつてないほどまずかったが、なんだか楽しくなってきた。気がつくとわけの分からない独り言をつぶやいたり、歌を歌ったりしていた。環七、新宿、飯田橋。やっと出発地点に戻ってきた。一時間おきぐらいに家に実況中継をしながら歩き続ける。御茶ノ水、秋葉原、浅草橋。鳥越神社の前でイチョウの葉っぱを拾う。きれいに黄色くなっている。口にくわえるとドカベンのイワキになった気分だ。隅田川。急に足が痛くなってきた。ふくらはぎが痛い。足首が痛い。ケツも痛い。足の付け根も痛い。歌が出てこなくなった。超寝不足で超運動不足の酔っ払いがやることじゃないなと思い始める。しかしここまできたら後には引けない。なんとしても歩いて家に帰るのだ。わけの分からない使命感が湧き上がる。葉っぱの茎が噛まれてだんだん短くなっていく。錦糸町、亀井戸、平井。ああ、荒川だ。俺が育ったところだ。橋の上で腰を下ろし電話をかける。ウィスキーがまずい。ちょっと休んだだけなのに、体がもの凄く重くなる。空には満月。雲が流れ、気持ち空が明るくなってきたような気がする。電車が走っている。おお、ひょっとしてあれは始発電車ではないか。つうことは俺には計画を中断して電車に乗るという選択肢も生まれたわけだが、そんなことをしちゃいけない。つうかありえない。俺は中野から歩いて帰るという運命の星に導かれてここまできたのだ。何が起ころうが歩いて帰らねばならないのだ。新小岩、小岩、この間が長い。道も単調だ。朝焼けが始まる。我慢できなくなった俺は再びコンビニに入る。またあったかい生茶と「からあげ君レッド」を買う。コンビにって素晴らしい。空がすっかり明るくなると江戸川だった。ここまでくればあと少しだ。時刻は7時。川面が紫色から水色にグラデーションを描く空を映し出してきれいだ。東は低い丘を背にしているので太陽は見えなかったが、気がつくと対岸の家々は朝日を浴びている。10分後には横になれる。そう思って里見公園の急な上り坂を登る。息子が通っていた保育園の前を通り、お寺の前を過ぎ雑木林を抜ける。家が見えた。玄関を開けると電話に付き合っていたチムリクがコタツの上に電話機を置いてうたた寝をしていた。お土産にずっとくわえていたイチョウの葉っぱをあげるとそのままコタツに入った。6時間は長かったな。でも面白かった。アホな一晩であった。

TRIGLAVというブラウザで出来る(といってもWindowsXP/2000のIE6限定だけど)カンパウェアという体裁で無料で公開されているアクションRPGにハマっている。ストーリーみたいなものは無く、ただひたすら50階から成る塔を攻略していく。ゲーム自体はまだ開発途中で、現在は40階までが公開されている。このゲーム、前にも二度ほど紹介したことがあるけど友人がインディペンデントに作っているゲームだ。でも前に紹介したときはMacしか持っていなかったこともあり、プレイしたのも他人のマシンで10階ぐらいまでしかやっていなかった。でも今は環境が出来たので思う存分遊べるというわけだ。

結構チキン野郎なので、現在最後の方のボス線で苦戦していて40階までは行っていない。しかしとにかく面白い。ゲームバランスはとにかく厳しい。洋物のゲームみたいだ。昔ブリザードという会社の作ったディアブロというゲームにハマっていたことがあるんだけど。それを思い出させる。実際作っている本人もブリザードのゲームは大好きだといっていた。かといってパクリというわけではない。充分過ぎる独自性がある。アイテムもメチャクチャ豊富で、ただ単に強いアイテムを装備すれば最強になれるというような感じではない。どのステータスもないがしろにされていなくて、どういうスタイルでプレイしたいのかを本気で考えさせられる。

ゲームなんて好みがあるから、あんまり厳しいゲームは嫌いだとか、もっとシステマティックにアクションを楽しみたいとかいろいろあるとは思うけど、ひとつのゲームのスタイルとしてこういう形があり、こういうスタイルが好みな人にとってはとてもよく出来ているゲームだと本気で舌を巻いた。

もともとSmokymonkeys(このゲームの二人組みの開発者)といろいろ付き合うようになったのも、俺がウェブ上でTRIGLAVの製作宣言を読んでその趣旨に共感してメールを送ったからだった。彼らがいなかったならルだって今とは違った形になっていただろうと思う。それぐらい影響を受けた。やりたいことを実現するためのスタンスが、趣味でも無く、かといっていわゆる受け仕事でもなく、なんかもっと違うやり方があるんじゃないかという、その単純な疑問と、その疑問への疑いのない突き進み方に嬉しくなったのだ。そしてその結果がここまで完成度が高いということにさらに喜びが膨らんだ。アホだなと。

でも、もったいない。ウェブなんてとても恒久性が低いメディアで(たとえばマイクロソフトがIEを別物にしてしまったらそれだけでプレイ不能になる。なぜならこのゲームは、HTML とJavaScriptとAsp(CGIみたいなもん)という普通のホームページを作るプログラム言語だけで作られているから)ここまでやってしまうなんて。実はそれも面白さであるわけだけど、50階まで完成したらアプリケーションにしてもらいたいとまで思ってしまった。

とにかくそのアホさ加減を知るためにだけでもプレイしてもらいたい。それだけの価値がこのゲームにはあると思う。これは単なるウェブページなのだ。ここまで作りこまれた、そして人を楽しませることの出来るウェブページには出会ったことがない。

楽しみにしてくれている人にはほんとごめんなさいです。

でも前から思っているんですが、毎日更新とかってある意味異常な行為です。自分ではこのサイトを更新するのは、仕事の一部だ、ぐらいに思ってやっているわけで、そうじゃなかったら三ヶ月ぐらいは続いても何年もとなるとそうそう続けられるものじゃないと思ってます。まあ、これは言訳ですが、もうちょっと話を大きくして言うと、こういう話になったときに観る側の期待というのをいつも考えます。それに答えたいわけです。そしてその回答が出され続けた結果として、今のテレビ番組とか週刊誌とか新聞がある。そうすると、果たしてこの答えはいいものなんだろうかという疑問がわいてくるのです。観る側と作る側にとってイイ関係なんだろうかと。

週間連載の漫画家の仕事なんてのは異常な仕事です。異常なペース。それだからこそ生み出されるものだってあるとは思うけど、どっか間違ってる。一年間に単行本が四冊、連載を四本抱えていたら16冊。あり得ない数です。一年に一冊、いや二年に一冊だっていいぐらい。しかしそれじゃ食えないし忘れられてしまう。アイドル歌手だって二年もブランクがあったら出直しになってしまう。でもそういうものだと思いたくないんです。ものを作るってそういうことじゃない。それはただの消費です。やり過ごすための気晴らしに過ぎない。

もっといいやり方があるはずだと思う。自分の中ではキネガワ堂もそのための模索の形です。まだ全然上手く行ってないし、ココとの折り合いもついていないけど。

リアルで切羽詰ってもいるのに絶妙に無意識でそのくせ計算高いのになんでこんなにリラックスしてるのってようにしか見えなくて実のところめいっぱいだったりもする、ような、ハッタリ、っていいものだ。

「ハウルの動く城」を観てきた。正直、作品としては破綻していると思ったけど、あれだけエンターテインメントの世界と文法で渡り合ってきた人が、これだけ駄目な作り方をするしかないようなモチーフに向き合うという事実には希望が持てた。皮肉を言っているようにしか読めないと思うけど、皮肉のつもりじゃない。

話がまったく展開できていない。カットのつなぎが唐突過ぎる。その結果、観客はほっぽり出される。でも、それだっていいじゃないかと思う。ここで、「これをステップにして次の段階にいけるなら」てなことを言うのが批評家的な立場なわけだけど、そうも思えない。むしろこれで終わりでもいいじゃないかと思う。そういう意味ではすごく正直だ。実際のところはどうだか分からない。今までの作品とはかかわっている比重が違うのかもしれないし。しかし、作品なんてそんなものでもあるのだ。観客が作家に対して優しくある必要なんてないわけだから、たとえば同じことをもう一度やったらかなり致命的だろう。それでもいいのだ。

とんちんかんな感想だと思うかもしれないけど、なぜかとても私小説的な印象を受けた。これまでの作品の中では外側に置かれていた「権力」とか「女」とか「死」とかが内側に持ってこられたような印象だ。そういうのは今までやってきたような文法では表現できないだろうと思う。でもそれを通してしまっている。「もののけ姫」のような頭でっかちな破綻ではない。弱さが前面に出ている。その弱さは時代が要請した弱さだ。そこまで正直にしなくてもいいのにと思う正直さ。そういうのって嫌いじゃない。

この作品にはカタルシスが無い。「なんかなぁ」とブツブツいいながら劇場を出た人がたくさんいるだろう。映画を見る前に市役所に寄ったのだけど、市役所の廊下には無名の日曜画家の絵がたくさん飾られていた。どれも弱くて上手そうに見える安易な技法に支えられた絵だったけど、そんなところにだって微かな光は見えたりする。そしてその光は美しい。ただ弱いだけで。濁っているだけで。つまり、フィルターがかかっているのだ。フィルターを取り除くことが作家のすべきことだとすれば、この映画は結果的にはあえてフィルターをかけたような映画だ。これまで取り払ってきたようなフィルターを無意味にするような方に向いている。そりゃあ上手く行くわけ無いだろう。でもそんなことだって必要なんだよ。生きてるわけだしね。

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