January 2005Archive

好きなものってなんだろ。それってただのノスタルジーじゃないのか。と思ったけどそんなことないな。好きな物にも二つの側面があって、それは要するにエロスとタナトスなわけで、ノスタルジーはエロス的側面で、タナトス的側面はというとパイオニアなわけだ。これを父と母に置き換えてもいいわけだが、両方好きってことが好きってことのほんとの意味なんだ。両方好きって事はだよ、同時に好きって事じゃなく、今日はこっちが好きで、明日はこっちが好きだったりするってことだ。で、好きって事が教えてくれるのは、そんな自分と同じように、他人とか虫とか木とか風とか科学とか経済とか、そういうもの達もやっぱり同時にどっちかになることは出来なくて揺れているもんなんだから、それをよぉくわかっておきなさいよ、って事なんじゃないかと思ったんだ。でも、それでも中立ってことがいいたいんでもないんだよな。たとえば多様性に向かうようなベクトルはあるはず。そうじゃなかったら面白くもなんともないもの。

想像力って凄いなぁとおもう。科学なんてたんに想像力の賜物だ。でもそれは想像したに過ぎないってことも事実だ。たとえ地球を消し去ることが出来るぐらいのエネルギーを生み出すことが出来たとしたって。

架空とか空想とかって言葉はいつも魅力的だ。で、なおかつ「リアルに感じられる」ように表現された架空や空想はさらに魅力的だ。で、それが「実用」になったりもしちゃうのが科学の世界だ。「実用」はいらねぇ!って言える強い体と心が欲しいものだ。

1/29(Sat) 6:56
既にあるものを利用するのは、それがどんなに気づきにくいことであっても、「思いつき」の範疇を出ることは無いのかもしれない。とはいえ、既にあるもの以外のものなんてどこにあるんだ?と、言われればぐうの音も出ない。でもそんなことを言うやつは、既にあるものさえ発見したことの無い連中だ。既にあるものを発見し続けているんだと思うととてもうんざりするけど、自分にとって新しいということは、それだけでもっともっと評価されるべきだと思うんだ。結果が陳腐であっても、本人にとって陳腐でなければそれでいいじゃないか。そうじゃなかったら子供なんて生きて行くのがイヤになっちゃうよ。でも、こういうことを言うと勘違いするやつがいっぱいいることも知っている。こういう物言いは、守るためじゃなく、前に進むためにだけ利用しなくちゃいけない。

一日中ゲーム用のプログラムとにらめっこしてたらメチャ疲れた。

とてもじゃないけど自分が一からプログラムを組めるようになるとは思えない。他にはたとえば作曲だってまともに出来るとは思えないけど、まだこっちの方が楽しめそうな気がする。

でも言葉を扱うのはプログラミングに似ている。だけどこれは「文法」とか「論理」とか「数学的言語」の世界で、そんでもってそういうのは実のところ、物語の構造とか文体に結びついたりもすると思う。でも「良い話」というのは必ずしも破綻の無い構造や一貫性を必要としないというところが面白い。

要は構造に依存するなら構造を記述する技術がねじ伏せられていないものには大した価値が無くて、逆にたとえ構造を記述する技術をねじ伏せられていなくても、構造への依存が少なければ、それは面白いものに成り得るということだ。分かり難い言い回しだなぁ。もっと単純に言えないのか。

このところゲームのことばかり考えてる。そろそろ本格始動したいって思ってる。で、やっとエンジンが掛かってきたかなって感じだ。

なんでこう、いつも土壇場まで行かないと本気になれないんだろうと思うんだが、今までずっとそうだったわけで、これはもうそういう性分なんだと諦めモード入ってます。

そんなわけでここの更新も滞りがちだしレスも遅かったりしてますが、次に行くためのステップだと思って勘弁してやってください。でもここの更新はもうちょっと真面目にやらんと駄目だな。

1/25(Tue) 5:46
パロディとコンピュータゲ?ムのチート(ズルして改造したデータでプレイすること)は同じ精神だと思った。で、それはもっと表現の内側に取り込まれるべきだとも思った。

力の無い表現はパロディもされないしチートもされない。だからこそパロディもチートも積極的に内側に取り込んだほうがよりエキサイティングになるように思える。パロディやチートは表現物に依存してしか存在しない。表面的にはコケにしているようにしか見えないかもしれないけど、それはどこまで行っても依存を超えることは無い。でもこれだけ世界が子供化してくると、過去を茶化すことだけで表現が成立してしまいそうでとってもつまらないのだ。暴力的に明言するってことは必要だ。それは面白いし、新しくもある。

確率を回すのは母殺しのゲームで、技術を磨くのは父殺しのゲームだと思った。日本では母殺しが好まれて、ヨーロッパでは父殺しが好まれる。今のところほとんどのゲームはマザコンとファザコンのためのゲームなのだ。ちなみにロリコンはファザコンに成れなかったマザコンのことで、ショタコンはマザコンに成れなかったファザコンだと言ってみる。そんでもってマザコンは農耕民族的でファザコンは狩猟民族的だ。だからどうしたって話だが、どれかに寄り添いつつどれでもないものを目指すようなものがやってみたいものだ、と考える。

1/23(Sun) 5:10
ギャンブルにおけるそれ自身を成立させるフィールドは母性的でなければ成立しないだろう。つまり、「当たり」が、「必ず」、「いつか」、「自分に訪れる」という「保証の信仰」が無いところにはギャンブルは成立しないからだ。かといってその保証は「存在する」という保証でしかないのだが、それで充分なのである。面白いのは「自分に訪れる」という「信仰」が「他人に訪れた」という事実によって成立するところだ。まあ、自分に訪れていないからこそ、それは「信仰」だといっているわけだけど、それは置いといて、ここで「他人に訪れたことは自分にも訪れる」という理屈こそは、「確率」という数学の最も占い的側面をあらわす「母性」なのだ。母性は確率を操作する、ことに全力を費やす。悪しき偶然を排除し、同時に悪しき偶然を生み出しもする。そして母性によって植えつけられたノスタルジーは母性によって生み出された確率によって葬られなければならないのだ。
1/23(Sun) 5:15
数学には思考する本人において時間が有限であるという定義が欠けている。
1/23(Sun) 5:16
計算する時間がゼロになることはない。
1/23(Sun) 5:26
スピードはそれが物質であるがゆえに有限でしか有り得ない。極限の速さも極限の遅さも比較においてしか存在しない。知ることが出来るのはスピードの内側において起こる経験だけだ。どんなものもそれ自身が物質であり、その物質が移動するときに計測される速度としてしか存在しないのだ。ここには認識の罠があることは分かっている。でもそれ自身をとやかく言うのはくだらないことだと思う。その認識から始まる遊びが重要なのだ。

俺の作る草原にはバッタが跳ねているだろう。俺の作る空には鳥が飛んでいるだろう。森には怪しい獣が徘徊し、大木の梢ではすばやい小動物が無重力のようにまとわりつき、小さな洞には目の無い節足動物が蠢いているだろう。人もいるだろう。人は病んでいるだろう。病んでいることも知らずに。病んだままで生きるだろう。

死ぬことが簡単でなければいい。死ぬことが簡単じゃないのがいい。バッタも獣も人も。簡単には死なないように存在するのがいい。死ぬことの簡単さよりも生きていることの不気味さと重みの方がもっと面白い。だって死ぬことを簡単にするのは簡単すぎるんだ。誰からも見える分かりやすい死ではなく、その人にしか起きない死の方が大事だ。それはきっと寂しいだろうけど、寂しいなんて当たり前だ。それはきっと、上手く行きさえすれば、今の俺には想像できないほど寂しいことに違いないんだから。

コンピュータゲームが表現できるリアリティってどういうものだろう、と、ずっと考えている。絵よりは映画に近い。でも映画とはまったく違う。

単にインタラクティビティを問題にするならアナログゲームにはかなわない。将棋や囲碁、たぶんチェスや麻雀も、どれも「誰か」とのかかわりにおいて擬似コミュニケーションのかなわない魅力を持っている。

またグラフィック的なリアリティで言うと絵や映画ににはまだまだ追いついていない。映像のインパクトにしてもタブローとしての情報量としてもしょぼいものしか表現できない。

前に模型的リアリティのことを書いたけど、模型の中でもリアリズムとしての模型ではなく、玩具としての模型を考えてみると答えがかすかに見えてくるような気がする。関節が動くとかミサイルが発射できるとかリモートコントロールできるとか博物学的にコレクションに燃えるとか、そういう、なんつうかいかがわしい魅力を味わうにはとてもふさわしいメディアなのだ。そのいかがわしさ、それが表現することの出来るリアリティ、それを知りたい。

でも趣味には大して興味がない。で、こういういかがわしさというのは、趣味の中にしか納まらないように存在してきた。趣味っていうのは俺的にはリスクの少ない遊びという意味で、あるマージン(余裕っていうか安全な部屋というか)を前提とした遊びだと思っている。そして、そういうマージンの上で成り立つ遊びにはリアリティを感じられないのだ。だから、こういういかがわしさからマージンを取り除いた場所には、リアリティと呼べるものがあるに違いないと思える。コンピュータゲームにはさまざまな制限があるけど、これまでには無かったようなメリットもあるわけで、そのメリットというのは今のところマージンというぬるま湯に浸かっているように見える。その湯船をひっくり返したところに出現するものが見たいのだ。

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