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20050123: 確率、計算、スピード

確率を回すのは母殺しのゲームで、技術を磨くのは父殺しのゲームだと思った。日本では母殺しが好まれて、ヨーロッパでは父殺しが好まれる。今のところほとんどのゲームはマザコンとファザコンのためのゲームなのだ。ちなみにロリコンはファザコンに成れなかったマザコンのことで、ショタコンはマザコンに成れなかったファザコンだと言ってみる。そんでもってマザコンは農耕民族的でファザコンは狩猟民族的だ。だからどうしたって話だが、どれかに寄り添いつつどれでもないものを目指すようなものがやってみたいものだ、と考える。

1/23(Sun) 5:10
ギャンブルにおけるそれ自身を成立させるフィールドは母性的でなければ成立しないだろう。つまり、「当たり」が、「必ず」、「いつか」、「自分に訪れる」という「保証の信仰」が無いところにはギャンブルは成立しないからだ。かといってその保証は「存在する」という保証でしかないのだが、それで充分なのである。面白いのは「自分に訪れる」という「信仰」が「他人に訪れた」という事実によって成立するところだ。まあ、自分に訪れていないからこそ、それは「信仰」だといっているわけだけど、それは置いといて、ここで「他人に訪れたことは自分にも訪れる」という理屈こそは、「確率」という数学の最も占い的側面をあらわす「母性」なのだ。母性は確率を操作する、ことに全力を費やす。悪しき偶然を排除し、同時に悪しき偶然を生み出しもする。そして母性によって植えつけられたノスタルジーは母性によって生み出された確率によって葬られなければならないのだ。
1/23(Sun) 5:15
数学には思考する本人において時間が有限であるという定義が欠けている。
1/23(Sun) 5:16
計算する時間がゼロになることはない。
1/23(Sun) 5:26
スピードはそれが物質であるがゆえに有限でしか有り得ない。極限の速さも極限の遅さも比較においてしか存在しない。知ることが出来るのはスピードの内側において起こる経験だけだ。どんなものもそれ自身が物質であり、その物質が移動するときに計測される速度としてしか存在しないのだ。ここには認識の罠があることは分かっている。でもそれ自身をとやかく言うのはくだらないことだと思う。その認識から始まる遊びが重要なのだ。

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