February 2005Archive

物語って主人公があくまで受身で、外側からのアプローチが発生することで進行していくものがほとんどだ。それはおそらく「読ませる」という行為、もしくは見せるというメディアそのものが要求する部分もかなりあるんだろうと思う。そうじゃないと面白さが演出できにくい。

これ、実はエンターテインメントの基本的法則だ。でも、自分でお話を書いてみてそれがすごく不満だった。なんで自分から何かを求めることがこんなに物語を成立させにくいんだろうと、ずっとイライラしていた。たぶん物語や絵にだって「自分が求めることによって成立する」価値を表現することが出来る可能性は充分にあるんだと思う。でも今のところはそれが価値になりにくいようにしか社会の価値観が熟成していない。

で、ゲームだ。
ゲームはまず身体性を要求する。本を読んだり映画館で座席に座っているのとは次元の異なる身体性だ。これが要求することはまさに「自分が求める」ということだ。これは絵や物語が受け身では開くことが出来なかった(じゃなかったらしにくかった)表現を社会的レベルで、つまり表現の可能性の底辺レベルを底上げするように機能するかもしれないと思えているんだ。

これ、俺にとってはかなりワクワクすることだ。

今日(つかもう昨日だけど)は暖かかった。春一番だったんだってね。土手を歩いていたら梅は咲いてるし木の枝も芽が膨らんできているし、なんかウキウキしてくる。今日は確定申告つうウキウキなんかとはまったく無縁なことをしていたんだが。いや、それが逆に良かったのかもしれないけど。

暖かくなると自転車に乗ったり歩きたくなる。そしてどこまでも行けそうな気持ちになる。一体どこを頭の中に描いてそんな気持ちになっているんだろう、と思うんだが、その答えの一つは「どこでもいい」ということだ。今を継続して辿り着くところがそこのどこかだ。もう一つの答えは「ここではないどこか」だ。自分にここは今までに来たことがない場所だという認識の変化が起きるまで移動し続けるってことだ。どっちも遠い場所だ。でも遠い場所に行きたいという気持ちがウキウキさせてくれるんだ。

恨み言の連鎖と経済学はとても面白い。個人において解消されるようにその連鎖と配分を生きないとつまらない。恨み言で進行する物語は好きじゃなかったけど、そんなことを思う自分の方が嘘つきな気がしてきた。それを言うのが自分でも他人でも、恨み言をすげぇクリアにないがしろにせずに流せる強さこそカッコいいじゃん。ホラーがエンターテインメントになるのはみんなが望んでいたことだけど、茶化しちゃ何の意味もない。それは隠蔽だ。決してベタベタせずに表に引きずり出し、肉を良く噛んで消化するようにサクサクとウンコにすることが大事なんだ。

生物って面白い。つか、生物が面白くないわけがない。それが面白くなくてどこに面白いことがあるんだってくらいだ。だって、食い物だって異性だって他者だって全部生物だ。もちろん無機物だって食い物だったりするし、気象だって他者だったりするわけだけど、生物が生物であるがゆえに実現する経験の宝庫は何物にも代え難い。生物によって学習が可能になり、生物によって生かされ、生物によってあらゆるものが始まる。当たり前すぎてアホらしいかもしれないけど、それは自分が生物だからなんだな、きっと。

2/18(Fri) 6:22
昔、ほんとにもう10年以上前だけど、優れたプロダクト、良く出来た作品、があったら、それは他者の代わりになり得るんじゃないかと本気で考えていた時期があった。この幻想ってのは、物を作っている人間だったら一度は考えたことがあることだろうし、実際それを目指して表現の技術や科学的な技術が進化してきたんだってところは誰も否定できないと思う。その幻想を追い求めた結果がスピードと簡便性と多様性を備えたインターネットだったり、魅力的な外観と使い勝手と悦楽をもたらす自動車だったり、まるで生物のように合理的で美しく、その上からだの疲れを癒してくれる椅子だったり、本物の景色のようでありながらちょっとの嘘をつくことで逆に本物の美しさに気づかせてくれる絵だったりしたわけだ。でも、それらは全て表現物の枠を超えることはない、そう思うようになった。医学でさえただの表現物だ。法律だってただの表現物だ。つまりそれらは他者のようではあっても他者ではなく、せいぜいが鏡なのだと思う。たぶんどこまで行ってもこの問題は付きまとう。どんなに求めても鏡を越えることはないんだと思う。ロボットとかアンドロイドとかクローンとかバーチャルリアリティとか、そういうのの究極を考えてみてもそう言えると思う。で、おそらくその究極まで行った時に分かることがあるんだ。表現物とは鏡の別名であると。そして自我の境界を曖昧にするという冒険が、これまでにもずっとされてきたのに、何時だって誰だってやっているのに、あたかも今始まったかのような新しいこととしてもてはやされるようになる。

セックスにおいて興味が尽きない側面の一つは自我の境界を曖昧にしうる可能性を持っているということだ。俺の場合はこの一点にしか興味がないんじゃないかってくらいそこに惹かれるし、そういうところにしかエロを感じない。

自分が誰でもいいとか、誰だかわかんないとか、相手が誰でもいいとか、誰だかわかんないとか、自分が他人とか物みたいに感じるとか、自分が無くなってしまうとか、他人が自分とか物みたいに感じるとか、他人がいなくなってしまうとか、そういう危なかったり幸せだったりすること全部が自我の境界が曖昧になることによって起こり得る。たとえジェンダーの力を借りたとしても、ジェンダーのその先の問題とか魅力とか引力がそこにはある。

自我の境界を曖昧にすることの重要性に比べたら、支配と被支配とかジェラシーと優越感とか、そういうのは境界を曖昧にするためのただの道具に過ぎないような気さえしてくるんだ。

2/16(Wed) 5:23
ひとつ前の話の続きだけど、自分の自我の境界は堅持しつつ他人の自我の境界が変化するのだけを見たいってのは最低だなと思う。お子さんよりひどい。でも、これってラクチンだからそっちに流れやすいんだ。つか、現代における「贅沢」って、「自分は安全(=自我の境界は堅持)」で、「他人の冒険(自我の境界に挑戦)を鑑賞」、が、価値になり過ぎているような気がするよ。そんなのどう考えたって面白くもなんともないじゃん。なーんも学べないし、一歩も前に出られない。もっとエロを活用すべきだぜ。

今日なんて18時間も寝てしまった。こんなに寝たのはホント久しぶりだ。普段たくさん寝ようとしたってこんなに寝てられないもんなぁ。いっぱい寝て起きると皮が一枚剥けたような感じになる。憑き物が落ちたみたいな。長い旅行から帰ってきたときとかもそうだけど、こういう感覚ってかなり好き。たぶん生きていくうえで必要なことなんだよね。それは日常を考えると強引なことかもしれないけど、もっと大きな目で見れば絶対に必要な当たり前のことになる。定期的に大河が氾濫することで保たれる生態系みたいなもので。そういうのって現代では何かと排除されがちだけど、そういう日常にとって強引であったり暴力であったりするようなことを隠すのではなくて、上手く付き合うようなやり方こそが大事だと思えてならない。

その男はいつも小さな箱を持ち歩いていた。タバコの箱ぐらいの大きさの錆びたブリキの箱だ。ポケットの中でいつも擦れているものだから、その錆でさえ黒く滑らかに光っている。あるとき女が男に聞いた「それ、何が入っているの」男は答えた「なにも」。それはほんとだった。その箱の中には何も入っていなかったのだ。またその箱の中には何かが入れられた事も無かったし、かつて何かが入っていたとも思えなかった。もし何かが入っていた痕跡があったとしてもそれを確かめることすら出来なかった。なぜならその箱は開けることが出来なかったのだ。

男はもう25年間もその箱を持ち歩いている。つまり、実は、男は25年かけてその箱の中に何かを入れ続けていたのだ。それが何なのかはその男も知らない。いつかその箱を、切り裂くか、潰すときが来たときに、それが何だったのかが分かるのかもしれないし、そうでなければ、それがなんだったかを知る手がかりを失うのかもしれない。

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