March 2005Archive

050331.jpg何の絵だかわからないですね。それでいいんです。これはゲームのプロットです。世界の構造の基本形。いくつかパターンを考えているんだけど、これならいけるかもという一つの形。最近サクバがわけのわからない屁理屈をこねているのも、まあこれのせい。上手く行くといいんだが。

世界は平らで果てがあり、海の終わるところではゾウさんとカメさんが大地を支えている。ってのが昔の人の想像した世界観であるけど、ああいうのも一人の人間にとってはあながち嘘っぱちではないと考えている。太陽が地球の周りを回っていたとしたって何の問題もない。別に現代科学が定義しつつある世界の構造を否定しようとかそういうことではなく、個人の認識として、つまり表現として、自分の内側から世界を定義するような態度というのは非常に重要だと思うのだ。たとえばそれがなかったらスポーツ選手は強くなることが出来ないだろうし、陶芸家は自分の身体をコントロールすることが出来ないだろう。主観が一番だとか、思い込みバンザイとか、そういう単純なことではなく、ある手応えと、意思を伴った規律の上で切り開かれる認識は、たとえそれが非科学的であったとしても、他には代えることの出来ない、個人にとっての唯一の認識になるはずなのだ。それは知恵と呼ばれたり、直感と呼ばれたり、妄想と呼ばれたりする。世界は平らであるという知恵があってもいい。月が穴である(by Timrick)という直感があってもいい。精神には涯があるという妄想があってもいい。認識の自由からこぼれ落ちているものはとんでもなく沢山あるように思えてならないのだ。

科学とは実用性という幻想のもとに集められた部分的認識の集合である、と考える。ここで言う実用性とは、戦争に勝つことであったり、洗濯物を手で絞らなくてもいいことであったり、料理をしなくても料理されたものが食べられることであったり、短時間に長距離を移動できることであったり、一時的に寿命を延ばすことであったり、離れた場所から現象を操作することであったりするような、とにかくも部分的でしかない認識だ。しかし実際は、そんな実用性のために部分的認識としての科学が肥大し続けているわけでは決してない。結果がそのように流通するおかげで、科学に携わらないものと、科学に携わるものとの間に実用性という幻想が横たわるに過ぎない。

一方で科学的に成れなかった全体的認識の分野がある。それは宗教であったり、芸術(といわれているもの)であったり、哲学であったりするような場所において生きながらえている方法論だ。そこでの発明品は直感的根拠しか持たない曼荼羅であったり、ダンスであったり、決定的な定義を欠いた論理であったりするようなものが生み出されてきた。

全体的認識は個人をベースにしてしか定義できないゆえに、おそらく原理的に正確でありえない。科学は現在、その正確で有り得ない領域に近づこうとしているようにも見えるけど、それが一致する場所もまた個人でしかない以上(少なくとも俺はそう思っている)、どんなに近づこうともその溝は埋めることは出来ないだろう。もっと言ってしまえば、科学もまた、部分的認識として認識される以前においては、全体的で個人的認識から出発しているのであって、それはまた科学の現代的価値を貶めるものでもあるのだけど、それが科学する個人にとっての現実であるという次元においては、それは科学でもなんでもなく、ただの個人的で全体的な認識への欲望の結果に生じた断片に過ぎないのではないかと思えてならないのだ。要するに俺は直感的で個人的な科学好きで、直感的で個人的な科学とはそれが曼荼羅であろうが電子レンジであろうがゲームであろうが、それぞれの価値が自分において再定義されるような場所を提供してくれる物であることを発見し喜んでいるのだ。

人と人との分かり合えない距離を誰もが縮めようとする。でも、その距離があるから生まれることをもっと喜ばないといけないし、それがなかったらつまらないとさえ思えないとダサいんじゃないかって気がしてきた。

縮めようとする欲望を否定しようとしているわけじゃない。それは厳然とあるベクトルだ。それを無視しちゃ何も始まらない。その上で、その上でその欲望を無視せずに距離を評価するべきなのだ。距離がない世界も距離が縮まらない世界と同じようにつまらないって事を理解するべきなのだ。

3/24(Thr) 7:05
45才で今、変身中な気がする。 ガキの頃、大人なんて変身しないもんだと思っていた。甘いな。一発お見舞いしたい。今自分に起きている変化がまったく把握できない。

社会は変身しない人間を基準に回っている。少なくと今までは。そうじゃないと定量的で予測可能な生産が出来なかったからだ。つか、予測可能な生産にはウンザリしているんだ。予測可能な生産によって金を稼ぎつつもだ。

予測可能な生産に意味がないとは思わない。そこまでバカじゃない。でも、予測不可能な生産に意味がないと思ってしまうバカにはなりたくない。

冒険がたりないのはエコロジー的な「愛」ではなく、ハンターが否応なく会得せざるを得ないような、受け入れざるをえないような、「他人」と「自分」と「世界」を結ぶ秘密なんだ。そこで、大嘘つきで、無茶苦茶ロマンチックな自分を発見したりもするけど、そんなことで恥じ入っているようじゃなにも起きない。

子供が変身するように、大人も老人も変身する。動物も植物も星も変身する。変身するのが当たり前。それがすきっと当たり前に思えない自分と社会に腹が立つ。不満を言うのはこんなにも簡単なのに、自分の身体の変化をごまかさずに言うことは努力が必要だ。

050323.jpgBBSの方で何度かやり取りしていた、t-saitoさんから立体キキリの製作中の画像を送っていただいた!

かわいい。

後姿の写真も送ってもらったんだけど、これがまたいい。実はキキリの後姿なんてまったく考えていなくて、それなのに最初っからこんなだったかもと思えてくる感じなのです。この部分はt-saitoさんのオリジナル。でもこのモデル、まだマスターでこの後型取りが控えている。あちこちから見た図は完成写真をお楽しみに、と、超プレッシャーをかけておこう。こういうのって嬉しいもんだなぁ。ありがとうございます。

この半年ぐらい、とても沢山の他人が作った作品を見た気がする。その前はというともう何年もまともには見ていなかった気がする。どうもこの手のサイクルが極端だ。

物を作る人間にとって、他人の作品は絶対必要なものだ。だって作品というものはそれ自体が作者を無視した生物みたいなもので、人から人に伝わっていくことで進化していくものなのだ。誰かに宿ることでその存在を維持する生命。とんでもないことを言っているようだけど、これ、かなり真実に近いと思う。

自分の作品を愛するのではなく、自分の作品に愛されないとダメだ。作品に愛されるように自分の作品に接しないとダメだ。作品を自分に宿らせることが肝心なのだ。

ここに書くのはもう4度目になると思うけどTRIGLAVというWebブラウザでプレイできるアクションRPGゲームがめでたく完成して公開された。

何度も言うけど、このゲームは友達が作っているんだけど、かれこれ3年以上ずっと進行を見てきた。たぶん開発期間は3年半ぐらいになるんじゃないだろうか。俺が作ったガラージュだって2年半だ。とんでもない時間だ。しかもこのゲームはカンパウェアという形を取っているけど無料で出来るゲームだ。しかもたった二人で開発されている。

こんなこと、趣味の範囲じゃとてもじゃないけど実現できない。でも、こういうことをやるバカがいなかったら、なんてつまらないだろうと思う。俺だって金にならないことに傾けた情熱と時間に関してはみんなに自慢したいぐらいだけど、まあ、誰も褒めちゃくれない。だから思いっきり賞賛したい。そしてそれもこれも中味がよくてナンボだ。で、この中味がほんとにとんでもない出来なのだ。実を言うとこの3ヶ月ぐらいテストプレイヤーとして一緒に遊ばせてもらったんだけど、そのこだわり、ボリューム、システムとしての完成度、ゲームバランス、どれを取ってもメジャーメーカーの作る作品と並ぶクオリティだ。褒めすぎだと思う人もいるかと思うけど、ほんとに凄いんだってばよ。

ネットは人を中毒にもするし、甘えさせたりもするけど、こういうプロジェクトを目の当たりにすると、ネットも悪くないなと心の底から思う。その可能性を信じようと思う。プロモーションとしてネットを利用するような利用例は沢山あるけど(ウチのサイトも例に漏れず)、こんな風に作品そのものとしてネットを利用して、しかもここまでやった奴なんていったいどれだけいるんだろうか。いや、ほんとによくぞやってくれたと感謝してしまうぐらい。負けてらんないね。拍手。

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