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20050328: 部分的認識と全体的認識

科学とは実用性という幻想のもとに集められた部分的認識の集合である、と考える。ここで言う実用性とは、戦争に勝つことであったり、洗濯物を手で絞らなくてもいいことであったり、料理をしなくても料理されたものが食べられることであったり、短時間に長距離を移動できることであったり、一時的に寿命を延ばすことであったり、離れた場所から現象を操作することであったりするような、とにかくも部分的でしかない認識だ。しかし実際は、そんな実用性のために部分的認識としての科学が肥大し続けているわけでは決してない。結果がそのように流通するおかげで、科学に携わらないものと、科学に携わるものとの間に実用性という幻想が横たわるに過ぎない。

一方で科学的に成れなかった全体的認識の分野がある。それは宗教であったり、芸術(といわれているもの)であったり、哲学であったりするような場所において生きながらえている方法論だ。そこでの発明品は直感的根拠しか持たない曼荼羅であったり、ダンスであったり、決定的な定義を欠いた論理であったりするようなものが生み出されてきた。

全体的認識は個人をベースにしてしか定義できないゆえに、おそらく原理的に正確でありえない。科学は現在、その正確で有り得ない領域に近づこうとしているようにも見えるけど、それが一致する場所もまた個人でしかない以上(少なくとも俺はそう思っている)、どんなに近づこうともその溝は埋めることは出来ないだろう。もっと言ってしまえば、科学もまた、部分的認識として認識される以前においては、全体的で個人的認識から出発しているのであって、それはまた科学の現代的価値を貶めるものでもあるのだけど、それが科学する個人にとっての現実であるという次元においては、それは科学でもなんでもなく、ただの個人的で全体的な認識への欲望の結果に生じた断片に過ぎないのではないかと思えてならないのだ。要するに俺は直感的で個人的な科学好きで、直感的で個人的な科学とはそれが曼荼羅であろうが電子レンジであろうがゲームであろうが、それぞれの価値が自分において再定義されるような場所を提供してくれる物であることを発見し喜んでいるのだ。

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