April 2005Archive

ほんとの理由はわからないけど、かなり長い期間質感を描き分けることに抵抗を感じていた。見た目的にはリアルかもしれないけど、絵という物質的にはリアルじゃないように感じていたのだ。だから、油絵とかテンペラで絵を描いていたときには、対象の立体感は描いても(それにさえ抵抗を感じていたんだけど)、質感は可能な限り均一化して、色の力を引き出したいと考えていた。

ところがもう一方で模型(今風に言えば造形)への、これまた強力な志向があって、そこではいやってぐらい質感を求める自分もいたのだった。つまり、平面では許せないことが立体だとまっしぐらになれると。でも、そんな風に引き裂かれているのは結構辛かったりもするので、何とか統合したいと思い始める。そこで始めたのがミクスドメディア系のオブジェ的な作品だったと。

マチエールという単語があって、これは絵肌とかを表現するときに使うんだけど、対象の質感を写真的で擬似的に再現するのではなく、絵という物体の質感そのものをコントロールすることでなんとか二つ欲求を統合できないかと考えたわけだ。これはこれで沢山の人が試しているし、一つの表現形式として完成できるような魅力を持っていると思う。

で、そんなこんなで今はデジタルをやっている。なぜここに繋がるのか。それはデジタルがただの夢に過ぎないからだ。その分潔く質感を再現することに抵抗を感じなくなることが出来る。他の理由もある。それはデジタルがマスに訴えることが出来るもっとも手軽なメディアであり、なおかつリアルプロダクトに(3Dデータでバイクの絵を描いて、それを元に実車を作るとか)、最も移行しやすい手段でもあるからだ。

この移行で捨てたもの。それは額に入るような「絵画」だ。置き場に困るような「絵画」だ。だからと言って、平面作品の物質性を無視しているわけじゃない。それを無視しているんだったら、プリントの質になんてこだわらない。ただ、新しい作品のあり方がまだ見えていないだけなのだ。

メディアハラスメントって言葉を捏造してみた。

「SECOMに入って安心!、と思ったら逆に今日は本当に大丈夫だったのかしら、と気になって安心して暮らせなくなりました。どうしたらよいでしょうか?」

「ご安心ください。私どもは危険レベルに応じての情報収集をしており、いつでもその情報を開示できる用意がございます」

「え?どんなのですか?」

「本日のご家庭へのアクセスは
危険度1=20597:
微生物 20563
(可視レベル以下のものを除く。
#視力1.0を基準)
蚊 25
蝿 4
ゴキブリ 3
鼠 1
カメムシ 1

危険度2=16
カラス 10
犬 3
猫 2
鳩 1

危険度3=71
不審とは思われない通りがかり54
お知り合い 8
営業 5
不審者 3
郵便配達 1

でした。
ちなみにもっとも危険と思われる不審者は去年の同日には5人でした。

ただし危険度1とされる蚊であってもマラリア等の伝染病を媒介する可能性がありますので注意が必要です。

なお、お知り合いは申請に基づいておりますので変更が必要な場合はお申し付けください」

「だからぁ、そんなことするから余計気になるんだっつうの、ボケ!」

…くだらねぇ。

自分と他人の間に距離を感じると他人が魅力的に見える。それは嫉妬にもなるし恋にもなるし恨みにもなる。どれもある意味過剰だけど、はるか大昔から普通にあったことだろう。でもマスメディアの発明によってこの関係性が怖ろしいぐらいのスピードで増殖した。

マスメディアってのは印刷技術がその最初だと言われているし、科学的視点に立てばその通りだと思うけど、俺的には言語そのものがマスメディアだと思っている。個人の思いをこめなくても(つまり一人の人間によって解釈されなくても)繰り返すことが出来る情報、それがマスメディアがマスメディアとして成立する本質なのではないかということだ。

マスメディアは、いかにしたらより簡易に情報を繰り返すことが可能になるかという、そのために発達してきた。書籍、新聞、雑誌、映画、ラジオ、テレビ、レコード、ビデオ、そしてインターネット。これは言い換えれば、いかに個人と個人との間に距離を感じさせることが出来るかという試みだといえる。なぜならそこで繰り返される情報は、繰り返されることのために繰り返されているのであって、それは個人の解釈(言い直しとかじゃなく、経験を(これも曖昧でクソ不十分だが)を経たあとの表現)まったく必要としない(ってのはちょっと嘘だけど)とってもサルなサイクルの再生産に過ぎないからだ。

マスメディアの技術が開発されればされるほど人は孤独になる。これは絶対的な事実だ。おじいちゃんが今日何回お茶を飲んだかがポットのボタンでわかる。そのおじいちゃんは、ポット芸人としてデビューを果たしたわけだ。たとえ観客が3人ぐらいであったとしても。別に悪いとは思わない。だって孤独は悪いものじゃないし。俺がこのサイトで絵が売れるのもネットというマスメディアのおかげだ。

でも、孤独とか、人と人との距離が強要するものは、甘さよりもむしろ厳しさの方がずっと強いものなのだ。覚悟も興味も準備も経験も理解もないのに、気がついたらデビューしていたなんてのは、心地いいものであるはずがない。それぐらいのことが簡単に起きるぐらいにはマスメディアは発達していると、で、望まれてもいて、まだまだ先に行くであろうと、ってところで、足りないものを考えたい。だってそこには誰の陰謀があるわけでもなく、受け入れ、なおかつ発情している自分がいるんだから。

リストカットとか欝とかがあちこちで話題になったりしていて、自分のまわりにも割りとそういう人がいたりするし、欝に関しては自分もヤバかったときが無いわけじゃない。で、そんな話をチムリクとしていて、ふと思ったんだけど、年いったおじちゃんやおばちゃんが(いや、俺だって充分おじちゃんだけどさ)、定年退職で呆けちゃったり、ガンになったりすることは同じことなんじゃないかと思ったのだった。

つまり何が言いたいのかというと、体が元気なうちは精神が負けたり自傷に走るけど、体が元気じゃなくなるとそこから意思が取り除かれて、体が勝手に主張を始めると。要するに同じ原因が違う結果を導いているだけなんじゃないかと思えたのだ。だから逆に言えば、体が弱まっていれば年に関係なく呆けたりもするし、体が元気ならリストカットするおばあちゃんだって居るだろうと思う。かなり強引かもしれないけど、言いたいことはこれらの現象の是非ではなく、そこにはこれらの現象が起きる根本的な要因が同じものとして存在しているんじゃないかって事だ。だからなんだって話だけど、ある事柄が話題になるときにそれを双方(見る側とやる側、両方)が特別視するような状況が嫌いなんだよなぁ。

インターネットが普及したことによってギャンブルが変貌したんじゃないかと思っているところがある。ギャンブルといっても現実の金の話じゃなく、確率に対する欲望としてのギャンブルだ。

ランダムな数値が自身の選んだものと一致する、もしくは特定の数値がたまたま揃う。そういう競馬とか宝くじとかパチスロとかでやっていたようなことが、ネットワークを前提にすることによって、馬とかゲーム機とかじゃなく、生身の人間を相手にしてギャンブルをすることが可能になった。携帯メールにはまるのも、ソーシャルネットワーキングシステム(クローズドの内輪コミュニケーションツール)にはまるのも、ネットワークゲームにはまるのも、自分で作ったサイトの反応に一喜一憂するのも、新しいギャンブルの姿のように思えてならないのだ。

そこでは金の代わりにアクセスやメッセージや流通している。沢山のアクセスやメッセージや得ている人は長者なわけだ。

じゃあ、これを成立させている確率への欲望は何を基盤にしているんだろうかと考える。そこには欠乏があるのは確かなのだ。その欠乏が欲望を生み出す。おそらく簡単にいってしまえばそれは寂しさだ。そこにはより強く求められたいという気持ちや、偉くなったり有名になったりしたいという気持ちや、自分を受け入れてもらいたいという気持ちや、孤独を忘れるぐらい忙しくしていたいという気持ちなんかが全部含まれる。良くも悪くも世界中の人がこの新しいギャンブルに夢中になっているのだ。

でも、ネットワークが生み出した「他人」を前提としたリアリティはそれだけじゃない。ギャンブルというのは「求める側」に立った定義に過ぎないからだ。求める人がいれば、当然求められる人がいるわけで、求められる時には喜びと同時に怖い事だって起こるものなのだ。そしてその怖いこともまた重要な価値だ。でもその話はまた今度。

人に全面的に信頼される、もしくは信用される、さらに人から恐れられる、もしくは忌み嫌われる、そういう関係がもたらす力って凄いものだと思っている。

これはもちろんコミュニケーションを含んでいるから、たとえば信頼される人と信頼する人の両方が居て初めて成り立つ関係だ。で、そういう関係から生み出される事実には現代においてまったく未踏の領域が沢山含まれていると思える。

シャーマンとか魔術師がやってきたようなこととか、オーラだとか奇跡だとか共時性だとか、そういうオカルティックに分類されるようなこともこの関係性でかなり説明できることがあるはずだ。でも、これってコミュニケーションがされているまさにそのときにしか実現しないという意味で、根本的にライブでしかありえないことだから、実証や再現性ということで言うと説得力に欠けてしまう。

だからと言って、信用せざるを得ないぐらい本気だ、とかってことの価値が揺るぐわけじゃない。なぜならコミュニケーションだから。これ、宗教だな。

最初の予定では健全ぽく見えるエロス的世界と、不健全ぽく見えるタナトス的世界の対比を考えていたんだけど、そのエロス的世界の方がタナトス的世界の方に吸い込まれつつあるようだ。しかし元々そのエロス的世界の方も消費社会の単純化された姿として考えていたわけで、現代における消費社会の病み方を思えば仕方ないことなのかもしれない。

このところ身体改造系のサイト(腕切っちゃったり、ちんちんを縦割りにしちゃったり、磔になったり)とか変態系エロサイト(ウンコ食ったり、馬とやったり、頭入れようとしたり)を割りとよく観てるんだけど、あくまで本人が進んでやっていると仮定した場合にはそういうことって「正常」な欲求としてあるんだと思う。たとえばインフルエンザにかかれば高熱が出るのは「正常」な体の反応だ。日常ではないにしろ、その熱は体が戦っている証拠だ。同じように性的虐待を受けた女の人が対人恐怖症になったり、逆に風俗にいったりするのも「正常」な反応だ。プライドの高い親に育てられた子供が分裂症になりやすかったり、母親の愛が充分に得られなくて超スケベになってしまったり、根本的な生きるすべを学ぶ機会をまったく持てずに(って今の時代誰だってそうだけど)育った子供が社会に適応できずに心を病んだり、そういうこと全部が「正常」な反応であり戦いとしてあるんだと思う。もちろんこの言い方で言うと犯罪でさえ「正常」な反応であり戦いであるといえる。でも実際そうなんだと思う。

ただ、「正常」なんだからそれでいいじゃないかとはこれっぽっちも思わない。なぜならそれは戦いだから。まどろんだり、意思を失ったり、依存したりしたら負けだ。その状態は「正常」じゃない。それこそが異常な状態だ。(いや、休むのはとっても大事だけどさ)

だけどこんな言葉はほんとに苦しいときにはまったく届かないし意味がない。ほんとに苦しいときに頼りになるのは自分の呼吸だけだと思う。その呼吸が意思なんだと思う。原因が外側にあろうとも戦わなきゃいけないのは自分だし。

話がずれちゃったけど、俺にとってのエロス的世界はそういうことを前提にした「戦いの準備をするフィールド」になる必要があるかと思ったのだった。つまり理想的でエコロジカルな快楽の園ではなく、タナトス的なバトルを支えるためのオアシス(捻じ曲がってはいるけど)である必要があると。既に誰もが改造人間である現代においてはそれぐらいが丁度いい。

......... Older »
Powered by Movable Type

Profile

Archive

Feeds