June 2005Archive

ブックマークがかなりとんでもないことになっている。ちょっと興味を持って数えてみたら、フォルダの数だけで350個以上あった。それぞれのフォルダには2から50ぐらいのサイトが登録されているから、一つのフォルダに平均で5つのサイトとしても1500以上。実際には2000?3000ぐらいのサイトをブックマークしていることになる。

こういうのって、これまでだったら図書館やショップや博物学者や一部の分類マニアがやってきたような作業なんだと思うんだけど、それがもっとプライベートな状況で実現できたり要求されたりするようなことが起きているのって興味深い。これがかったるいと思う人は、情報なんてその都度検索すればいいじゃないという態度をとるだろうし、そういうのが苦じゃない人は、ひたすら細分化されたディレクトリを構築していく。いっそのこと図書館的、博物学的分類に従った優良デフォルトブックマークを作ればいいんじゃないの、って妄想も頭をよぎるんだけど、仮にそんなことが起きるとしても、それはずっと後のことだろう。今ある情報を即座に使いこなしたかったら分類するべきだし、分類することに時間を費やすぐらいだったらその時間に何かを作ったり生活を優先するぜ、って人は分類なんて無視するべきだ。

分類も収集もそれ自体で大した価値があるとは思わない。ほとんどはナルシスティックな快感に終わるのが常だ。だからどうでもいいって言えばどうでもいい話なんだけど、ネットが存在する前にはありえなかったこのローコストな誘惑は、ブログの普及スピードを見るまでもなくかなり強力だというのは確かなんだと思う。

ウチで使っているプリンタの後継機種といえる新製品がついに出てしまった。PX-5500。これ、かなり良い出来らしい。インクにライトグレーが加わって、モノクロの諧調表現が豊かになっていたり、光源の影響による色の変化が抑えられていたり、耐光性や印刷スピード(3倍ぐらい速いらしい)はもちろんアップしているし、インクの粒子も細かくなっているし、色調整にもかなりのこだわりを持って仕上がっている様子。他人のレビューを見る限りじゃ迷わず買いって感じだな、こりゃ。お金ないからすぐに買えないけど。

今使っているプリンタは購入してから3年になる。デジタル機器としてはかなり長い間現役でいたんじゃないだろうか。これだけ世代交代が速い世界では驚異的といっていいぐらいだ。まだ充分使えるし、クオリティにもかなり満足している。それでも買い換えないとダメだろうな。デジタルってそういうものだ。今にそういうものじゃなくなるときが来るのかもしれないけど、今のところそういうものだ。かったるいけど。でもって買ってしまえばいくら気に入っていても古いのはだんだんと使わなくなっていくのだ。

正直言って、こういうサイクルにはまりたくないと思っている自分はかなり強く意識している。仕方ないで終わらせたくない。かといってアナログに戻ればいいじゃんとも思わない。戻るも何もそれは別の技術だからだ。デジタルでやるならばリアルプロダクトに置き換えないで、モニタや脳の中だけで完結するような方向を目指すべきなのかもしれないという気持ちがいつもついて回るし、実際そうなのかもしれない。

デジタルゲームとウェブ上のメディア(フラッシュとか)によって、「終わり」を前提としない作品構造が定義しなおされたと思っているところがある。絵なんて元々そういうものだったわけだけど、それは時間的な拘束が完全にフリーだったわけで、デジタルがもたらしたものとは微妙に異なる。本質的には同じだと思っているんだけど。これってもっと言ってしまえば、物語構造に依存していないということだ。映画でも物語構造に依存しない映画というのは沢山試されていると思うけど(具体例を挙げられるほど詳しくないし、なぜ詳しくないかといえば成功例を見たことが無いからだと思う。コレは音楽に対しても言えそうだ)、そこに付きまとう退屈さは「芸術」というフィルターを抜きにしては一般化されないようなものでしかなかったと思っている。

デジタルゲームがもたらす欲望は他者を必要としない欲望だ。マスターベーションの再発見だ。例によってのってきたので飛躍すると、マスターベーションの効用を最大限に評価した場合に、望みうる効果のかなりの部分がこの可能性の中に含まれるのではないかと思う。

マスターベーションは悪い側面ばかりが表現されるけど、発明だって哲学だって創作だって、マスターベーションを完全に無視したら存在し得ないだろうと思う。要するに、デジタルゲームはマスターベーションの積極的側面を再評価するためにとても面白い役割を果たしていると思うのだ。教育とはマスターベーションの仕方を教えることである。

ウチにも不幸の手紙が回ってきたのでやってみます。回してくれたのはMixi経由で豆乳カイダンのbasilさん。ではイケナイリンクしまくりで

【コンピュータに入っている音楽の容量】
整理してないけど7GBぐらい。

【最後に買ったCD】
6年ぐらい前にガラージュの参考用に買った、グレゴリオ聖歌のCDとケルトの民族音楽。

【今聴いている曲】
聴いていない。基本的に気分転換が必要なときとか、まったりしたいとき以外には聴かない。音楽を聴いていると絵が描けない。最後に聴いていたのはアメリのサントラ。

【よく聴くまたは特別な思い入れのある 5 曲】
1:Rock Around The Clock
小学生のときに"暴力教室"という映画を見て、なんてカッコいい音楽があるんだと感動した。

2:Scarborough Fair:Simon & Garfunkel(直リン)
中学生の頃にはまってました。

3:Chorale Prelude O Mensch Bewein:J.S Bach
バッハのオルガン曲はどれも好き。これは大学生の頃に聴きまくっていた。そのときに聴いていたのはシュバイツァーのアルバム。他の鍵盤曲だと平均律とかゴールドベルグ変奏曲とか。

4: Trans Europe Express:Kraft Werk
これも大学生の頃。YMOは全然ぐっと来なかったんだけど、クラフトワークはカッコいいと思った。

5:O Superman:Laurie Anderson
最初聴いたとき、「こういうのもありなのなのか」と思った。

5曲って何を選んでいいかわからないな。古いのばかりになっちゃった。映画音楽とかCMソングとか歌謡曲なんかも入れたかったんだけど、それはまたいつか。

誰かが作った作品に対して、レベルが高いとか低いとかって評価はよく見ることが出来るし、自分でもそういう言い方はよくしているんだけど、この場合の「レベル」ってのはもの凄く曖昧に使われていると思う。

例えば社会的に流通しうるクオリティを保っている、という意味でのレベルであるかもしれないし、その人の人生における通過地点としてこの上なく真摯に取り組んでいることが感じられる、という意味でのレベルかもしれないし、この人が属しているコミュニティの中ではかなり優れているんじゃないの、という意味でのレベルかもしれないわけで(そのほかにも沢山あるだろう)、それを明確にして言うことはしばしばはばかられたりもすることもあったりなんかして、ますますそういう評価が曖昧にまかり通っていく。

それって言う方にとっても言われる方にとっても不幸だと思う。こういうことはきっちり言うべきなのだ。それは「評価を下す」という言い方のニュアンスが感じさせる絶対的な第三者(ほとんどの人はここで、会社や学校や、先生や上司を連想するのではないかと思うのだけど)の発言としてではなく、対等な一人の人間の発言として流通するべきなのだ。もちろん、対等な一人の人間の発言であるにしろ、そのひとの社会的影響力や、真摯さによってその発言の重みは変化する。それは当たり前だ。誰もが対等であるわけではない。そういう正しい不平等が足りないと思うのだ。

正しい不平等のためには立場を明確にすることが必要だ。評価は正しく不平等でなければならない。作る人間も評価する人間も孤独な場所から発言しなくてはならない。

映画とか自動車とかのマスプロダクトが基本になっているような産業から生み出される作品への興味がどんどん失われていく。もちろんマスプロダクトであっても、それは個人の集積、もしくは個人の指揮下で作られているわけだから、興味が失われないような作品が作られる可能性だっていくらでもあるわけだし、実際に興味を持つ作品もあるわけだけど、それ以前のところで大勢の人間が関わらないと実現しないというところで萎えてしまう気持ちが否定できない。

映画だって自動車だってプライベーターとして製作することは出来る。自転車やナイフや焼き物や絵だったらなおさらだ。しかしおそらく、才能のある人間はマスプロダクト側に吸収されて仕事をしていくだろう。大昔だったら画家として生計を立てるような人が、今だったらイラストレーターとして生計を立てる。そういう風にマスプロダクトの個人に対する影響が働いていると思う。もちろんどこに居ようとも自分の作りたい物を作っていると自負している人も沢山いるだろうし、そういう人の作ったものにはスペシャルな魅力が宿るものだ。それはそれでいい。

ただ、プライベーターじゃないと実現できない作品があると思っているのだ。そしてそういう作品を見てみたいし、自分で実現してみたいのだ。今それを説明することは出来ないけど、そういう作品には、少なくとも自分にとってはとても重要な価値がある。その価値がわかりにくくても、説明できなくても、流通しづらくても、それだけははっきりしている。なぜならそれは自分が生きていることだからだ。

夕方、なんかやけに怪しい天気で、上の空は曇って雨がぱらついているのに、西の空は開けていて沈みかけた夕日が建物の壁を光らせている。ぞわぞわする天気。すると見事な虹が出た。端から端までぐるっと。しかも一方は二重になっている。虹の直径ってどれぐらいあるんだろうとか思いながら、ずっと空を見上げて歩いていたら、急に目の前の町のスケール感が変化したような感じがした。町が小さくなったというか、空が大きくなったというか、そんな感じに。全部が虹の手前にある。虹をバックにした舞台と言うかオモチャと言うか、それがとてもリアルなんだけど、逆に嘘くさいようにも見える。こういうとき、いつも自分は世界を掴んでいるような気持ちになる。世界と対等になっているような気持ちになる。それはたぶん、もっと日常に必要な感覚であると思う。

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