July 2005Archive

きのうのNEWS、酔っ払って書いてるから飛びまくっててかなり意味不明なことになってるな。まあ、自分がわかってるから良しにしよう。とかいいつつ今日も終了直前なわけだが。

と、ここまで書いたら腹が減ったのでカップ焼きそばを食った。最近お気に入りの具入りラー油も追加。リンクを貼ろうと思ったらネットがやけに重くていらいらしたんで中止。

と、ここまで書いたら我慢が限界に達してきたので水風呂を浴びた。ふう。

やっぱ夏はさぁ、パソコンの前でマッタリするためにあるわけじゃないんだよな。虫取りに行ったり、走ったり、アイス食ったりしないと!

新しさの限界について考えるのが好きだ。まず新しさってのはそれ自体が暫定的な概念だと思っているし、自我の規定にもよるけど、自我を主観的認識ベースで捉えるなら、無限の新しさってのは存在しないわけで、極論すれば単なる「変化」にまで単純化したってなんの問題も無いとさえ思っている。つまりここで言いたい新しさの限界ってのは、自分における新しさでしかないし、それ以外の新しさってものも、どんなに外側に感じようとも、結局のところは自己認識の外側に出ることは出来ないんだよなっていう、ある意味ペシミスティックな意味も含めつつな限界であるわけだ。

こういう思考をひねくれていると片付けるのは簡単。で、こういう思考の限界を面白がるのが好きなんだ。もの凄く飛躍するけど、市場原理とかってこういうロジックに支配されていると思う。つまり誰もが多少は思っている「自分」という認識が、本質的には全てが自分でしかないと論理的には言い切れる側面を持っているとも言えるのに、実際の市場とか社会とか個人的なコミュニケーションは、それが個人的な認識に留まらない共同体であると言う前提によって成り立っている。この手のことって凄く厄介なことなんで、簡単に言い切ってしまうと間違う。でも、これを意識していなかったらどこに面白いことがあるのってぐらい面白い。

いろんなスタンスの人がいるし、だから面白い。でもそれぞれの人がいろんなスタンスを表明していなかったら、ちっとも面白くない。そこに「自分」と「共同体」を超える可能性を感じる。新しさって概念は、自分と共同体を相対化するように存在したときにこそ、その力を発揮するし、限界を明確に現すものなんだ。

050729.jpgこのところ条件が揃ったこともあって、ゲーム企画にスイッチが入ってます。だいたい何かに本気になってくると、日記を書いたりするのがおろそかになるパターン。楽しみにチェックしてくれている人にはほんと申し訳ない。もうちょっと作業が進んだらスクリーンショットとかアップするつもりなんで捨てないでやってください。

…という言い訳NEWS、ってどうなのよつう話ですね。とほほ。しょうもないので写真でも貼ってお茶を濁してみたり。

たぶん生まれたてのアゲハチョウ

ポップでカリカチュア的だったりカートゥーン的だったりするような表現は、ある意味表現の本質に基づいていると思う。表現は本来的に人工的なものだったことが良くわかる。

で、そういう価値に対抗するのはリアリズムという価値だ。リアリズムってのはとってもいかがわしい。なぜならそれは、より人工的な技巧を凝らすことで、それが人工物であることを忘れさせようとするようなベクトルを持っているからだ。だましてナンボ。それがリアリズムだ。

シュールリアリズムだのハイパーリアリズムだの言い方やジャンルわけはいろいろされているけど、基本はどれも変わらないじゃんって思う。だましのテクが変化したに過ぎない。これは2Dを超えて現代美術全般に拡大解釈したってそのまま当てはまる。要するにリアリズムってのは本質的にメタレベルを基準とした価値体系なのだ。これはもっと拡大解釈すれば科学にもそのまま置き換えることが出来る。

んでね、そういういかがわしいものが、いかがわしいものとしてある状態が好きなんだな。それってひねくれたポップだ。へそまがり。

人は悲しい時に怒る

7/16(Sat) 5:34
higurashi ga nete simatta yo


7/16(Sat) 5:35

カラスがかったるそうに

空を横切ったのを聞いた

何度か

7/16(Sat) 5:42
夏の朝に

朝顔の

研究

をしていたことを思い出したけど

今の夏の朝は

ここにあって

ここから始める

夏の朝を

始めてみるのも悪く

ない

んじゃなくて

もうちっと

ちょっと先から


この湿度と

ねばりと

すがすがしさと

ながれるものと

温度の密度

心地よいと

薄紫の朝方に

窓を通して

誘われている

思い出の

思い出と

区別のつかない

今を

始めている

おじいさんの時計


7/16(Sat) 6:22

喜びと悲しみと怒りの違いはなんだろ?


7/16(Sat) 6:24

今日、生きたことを

悔いないで生きよう。


7/16(Sat) 6:26

欲しいもののために

自分の人生をささげた

てなことを思い込みたがる

そんな自分とは

疎遠になりたいものだ。


7/16(Sat) 6:28

そうやって

今日の身体の温度が少し下がる

そんな自分を

恥じてはいけない


7/16(Sat) 6:34

「僕はここにいる」
というときの「僕」
に含まれる
嘘を
媚を

忘れないでいようと思う


7/16(Sat) 6:37

今日飛び立つ飛行機。

と言ったときに

寄せられる期待

に、

揺られたくない


7/16(Sat) 6:40

またあした。


あしたという言葉は嫌いじゃないけど

あしたと言った
自分に含まれたいとは思わない


7/16(Sat) 6:44

幾何学的に美しいものが好きなのに

俺がとる行動はそうではない。


それでいいじゃん

俺が欲しいのは新しい幾何学だ

文様だって発見されうる
いまだに!

ゲームというメディアは面白いと思うのに、自分が興味を持つ作品が少ない理由の一つが思い当たったような気がした。

フィクションとして構築された設定情報があまりにショボイのだ。ハマらせるためのリアリティのある世界が提示されていない。

これはもちろんビデオゲームの話で、純粋にルールを楽しむアナログゲームの話ではない。もちろんシステマティックなビデオゲーム(アクションとかパズルとかシューティングとか)の場合にはこれはそれほど当てはまらないけど、RPGなどのバーチャルワールドを前提としたゲームではリアリティの欠如は致命的なのではないかとさえ思える。利用出来得るコマが利用されていない。もっととんでもない情報量を含んだ世界で遊んでみたい。深さが欲しい。

こういうのって、ひょっとしたらゲームという文法から見れば邪道なのかもしれない。システムこそが情報を提供し、システムがゲームの価値の本質を左右する。確かにそうだ。でも何でもアリでしょ?俺はそういうのを遊んでみたいのだ。

寝る前に酔っ払いながら、無名への欲望について考えていた。孤独への欲望と言うより、無名への欲望と言った方がしっくりくる。たぶん具体的な方法論をより想像しやすいからだと思う。

無名への欲望と言ったら、一番分かりやすいのはフェチな方々だ。改造フェチ、ラバーフェチ、タイツフェチ。これらは見た目とベクトルが一致している。でもそうじゃない普通の人だって無名への欲望に支配されていると思う。美味しいものを食べることや、気持ちの良いセックスをすることや、面白いゲームをすることや、夢中になってスポーツをすることなんかは、全て無名への欲望によって支えられているのだ。

快楽は人が無名である場所に導く。もしくは無名であることこそが快楽である。

でも無名であるということは怖いことでもある。準備のない人にとっては残酷この上ない経験をもたらす。強制的に無名な場所に追いやられる人たちも沢山居るのだ。例えば強姦される。障害を持って生まれてくる。病気になる。戦争に行かされる。虐待される。学校、会社、病院、家庭、戦争、これらは、望まずに無名な場所へ追いやるための装置としても機能している。意思を欠いた経験は苦痛以外の何ものでもなくなる。ただし、それを苦痛で終わらせるかどうかは本人次第だ。なぜなら生物はもともと無名なものとして存在していると思えるからだ。

ところでジェラシーと言うものは自分よりも無名である人に対して向けられるものなんじゃないだろうか。少なくとも自分の場合はそうだ。世の中ではジェラシーを糧とした作品が作られまくっているし、自分だってそういう傾向はあったと思うけど、ジェラシーなんかに振り回されている暇はねぇなと最近思う。人はもっと自分から無名への冒険をするべきだし、望まずにそういう場所へ追いやられた人は、よりよく戦うべきなんだ。

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