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20050809: 消費側の能力の限界

ゲーム内のリアリティについて考えている。ちょっと前に書いたカリカチュアとかのデフォルメの話と共通するんだけど、現実(だと多くの人が思っていること)に近づくことが必ずしもベストではないってのは面白いなぁと思う。

これからハードウェアやソフトウェアの技術がどんどん進化していって、映画とまったく区別が無いようなフォトリアリスティックな画像が思うままにグリグリ動いたり、実際にそこにいるんじゃないかと思えるような複雑な影響関係を反映したアクションが可能になったり、そこに実際に存在する人間の音声が絡んでいったり、匂いが嗅げたり、ほんとに触っているように錯覚できたりという、誰も体験したことがない「箱」としての可能性はデジタルゲームの可能性として多大な埋蔵量を残しているんだろうけど、これらはあくまで表現のための素材でしかなく、馴染んで身に染みてしまえば「だからどうなの」ってことになるような運命を持った「新しき市場的狩場」に過ぎないと思える。

「新しき市場的狩場」の魅力と影響力がどれぐらい凄いかってのは置いといて、それを表現に転化するときにかかるコストパフォーマンスと消費する側の受け入れ能力に興味がいく。表現物としてのゲームのリアリティってのはここにかかっていると思うのだ。とりわけ興味があるのは消費側の能力の限界だ。コストパフォーマンスは下がる一方なわけだし(ありがたいことに)。

つまり新しさを除けば、面白さの受け皿(消費する側の受け皿)の容量に劇的な変化が起きるとは考えにくいのだ。デジタルメディアを利用した表現物に、8年ぐらい前までは寿命の短い表現形式だというような思い込みが蔓延していたような認識があるんだけど、それはただ単に作られたものがつまらないものだっただけだと思う。同じ時期に出ているファミコンゲームのほうは、いまだにリメイクされたり遊ばれているようなものが沢山ある。

当たり前すぎて書くのがつまらなくなってきた。何が言いたいかっていえば、作ること自体はどんな表現物であれメディアの限定の中で行われるし、それを生かすことでしか面白いものは出来なくて、それこそが表現だってことが言いたかったんだ。デジタルだろうとアナログだろうとそれは変わらない。

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