September 2005Archive

迷子の状態ってのは通常のゲーム的にはADVやRPGであればハマリの状態であり=クソゲーなわけですが、それがクソゲーにならないためには、

1:どれも必須イベントでなく、
2:迷子になってもゲームの基本システムが生きている状態にあり、
3:どこに進んでいるのか自覚できなくても基本システムがプレイヤーの意欲を持続させる力を持ち、なおかつその持続がシステムを超えた価値に結びつくように世界観が設定されている。

というようなことが最低でも必要なのではないかと思っています。特に3番ですね。口で言うのは簡単ですが…

また、ゲームの楽しさを支えるのは基本的には「達成感」だと思うんですが、今のゲームは達成感に頼りすぎていると思う。達成感を積み重ねまくって幸せになるという価値観。その上、その「幸せ」は他人との比較における幸せでしかなかったり、他人の評価が得られるという幸せでしかなかったり、まさに現代教育を丸写しにしたかのような価値観がたまらなくイヤだし、それにハマる自分にも腹が立つ。

で、孤独を達成するという価値は楽しいのかってことになるわけですよ。俺的にはこれ以上楽しいことなんかないだろって気がする。ただ、ここで言うところの孤独というのは、単に一人ぼっちであるとか、どれだけ寂しいかとか、そういうことじゃない。この前テレビを見ていてインディアンの歌が紹介されていたんですが、その歌はこういうわけですよ。「俺は一人でどこまでも歩いてきた、あらゆる場所を果てまでも歩いてきた、そしてこの世界には友達でないものはひとつも見つけられなかった(超意訳)」いい歌だなと。

絵でも何でもそうなんだけど、表現っていうのは基本的に単純化によって成り立つものだってのはある。単純化するからこそ人に伝えることが出来る。これは例えば名前をつけるってことを考えてみれば納得できる。名前をつけるってことは名前にあらわされていないものを切り捨てることなんだけど、名前をつけることによって初めて他人にその存在を知らせることが出来て、なおかつ名前に含めることが出来なかった切り捨てられたものを、伝えられた他人が知るきっかけにもなり得る。だから優れた名前というのはそのきっかけを含むように単純化された名前だということも出来る。どのように切り捨てるか。それが重要。

たとえばマリオやゼルダなんかだと、現在の技術が実現できるリアリズムという観点から見れば随分と単純化した世界を構築しているわけだけど、その分TOKIなんちゃらが言う様に想像力をプレイヤーに要求し、かつ、その想像力を裏切らないように作りこみをしていく。これは宮本茂本人が言っていたことだけど、「あのブロックの上は歩けるんだろうか、とか、ここでブーメランを使ったらスイッチが入れられるんじゃないだろうか、みたいなプレイヤーの思いを出来るだけすくい取ってあげたい(超意訳)」てなことを言っていて、それはやはり単純化したからこそ提供できる価値だなと思うわけです。ゲームじゃないと出来ないこと、それをとても大事にして作っているし、これは「きっかけになり得る単純化」という観点から見るとかなり優れている。

ここでリアルってことに二つの側面があるのがわかる。一つはビデオゲームが登場する以前の映画に代表されるようなリアル。見た目が本物のようで、ストーリーに隙が無く、あたかもそれを見た人が「自分が経験したんじゃないか」と錯覚させるようなリアル。もう一つはゲームが提供するリアルで、これはプレイヤーがポジティブに想像力を働かせたときにしか価値を発揮しないけど、それが発揮できるように作られていれば見た目やストーリーに関係なく「自分が経験できる」リアル。たとえうろつきゲ?ムであれ、やはり後者を目指したい。とするとTOKIなんちゃらが言うように視覚的リアリティはある程度犠牲にしつつもゲーム的リアリティを目指すってことになるわけだけど、リアルなグラフィックもそれがゲームシステム的に過剰でなく、むしろ必要であるようにデザインすることも可能なんじゃないかと思っているところがある。しかも世界の単純化を維持した上で。

あくまでも例えだけど、緻密に描かれた草原があったとする。そこには何十種類もの草が生えていてその中から自分に役立つ草を見つけ出す。プレイヤーは腹が減っていてどんどん疲れていく。その草が見つけられないとゲームオーバー。達成されるのは自分が生き延びたということだけ。ルールは簡単で、グラフィックはリアル、しかもジオラマ的。ここに「道を覚える、もしくは探す」という要素や「障害物としての動物」なんかを加えていけばとりあえずゲームとしては成立するんじゃないかと。

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ついでに書いておくと、今作ろうと思っているゲームの基本システムは「追いかけゲー」です。普通のゲームのほとんどは「追われゲー」です。パズルでもアクションでもRPGでもかなりのものは「追われゲー」を基本システムとしている。でも「追われゲー」だと「うろつき感」を表現するのは難しいんです。やっぱり「追いかけゲー」じゃないと。草を見つけるってのも追いかけゲームとして考えることが出来るし、あと既存のゲームでこれに近いのは釣りゲームだろうな。自分から求めないと何も起きないって意味で釣りゲームは「追いかけゲー」だ。

それと今回、プログラム上の技術的限界(つまり俺の勉強不足)で、やりたいことと実現できることの間にかなりのギャップが生まれるのが目に見えている。そして、それでも今出来ることから始めたいってのが基本スタンスになっている。

例えば雨を降らせたいなぁとか、雨が降れば体力の消耗は激しくなるだろうなぁとか、水に入れば歩くスピードは遅くなるようなぁとか、いつまでも走り続けることは出来ないよなぁとか、そういうゲーム性を盛り立てることが出来そうで、なおかつ操作性やルールのシンプルさをスポイルしない要素は出来る限り入れたいんだけど、どれも無理。

だからと言って、雨が降らせられないと表現できないってわけじゃないんでその辺の一番シンプルな状態をしっかりと掴んでおく必要がある。

あと既に基本システムとして必要なのにスペック的な問題で障害になりそうなことも浮上し始めている。例えばマップの広さ。最新ゲームの3Dマップみたいに怖ろしく広いマップを読み込めれば何の問題も無いんだけど、そうはいかない。現在約3000Pixel四方のマップでテストしているけど(ゲームウィンドウは800×600)追いかけゲームとしてはどうも狭い。予想としては5000?6000Pixelは必要な気がするんだけど、この大きさだと Photoshopで描くにも辛いし、なによりWEBゲームとしてやるには重過ぎるし、それだけじゃなくプログラムの記述が膨れ上がりすぎる怖れもある。とはいいつつ、実際にパブリッシュされるはずの時期を考えると、めいっぱい背伸びもしておかないとならないし…

うろついているだけで楽しいゲームにしたい、これはガラージュを作っていたときにも思っていたことだ。ガラージュは言語的なモチーフもそれなりにこめられているけど、基本的には「そこにいる」ということが感じられるように世界があって、それをプレイヤーに感じさせることが出来ればゲームとして成立すると信じていた。

自分にとってリアルに感じられる世界があり、それは一方向の「物語」としてではなく、時間を含んだ空間としてそこにある。そのリアリティを表現できればそれはゲームとして成立する…。これは主に模型やジオラマから学んだ感覚だ。この感覚は社会的には一般的ではないかもしれないけど。例えば子供が一人ぼっちで下校後の散歩をしていたりするときや、会社や学校を休んで公園のベンチに座っていたりする時ににふと実感するようなものであるという意味では特別なものでもなんでもなく、それが「詩的」であるがゆえに流通を困難にしているだけのきわめて一般的な感覚であると思っている。「世界」は物語的であるだけが魅力になるようには出来ていないし、もっと多様な空間を含んだ進化と選択によってそこにある。

物語が表現する孤独は一面的すぎると思う。孤独はもっと自由で多様なものだ。そして孤独の無い世界はなんて退屈なことだろう。うろつくだけで楽しいゲームは孤独を再認識させるゲームであると思う。その自由さ。その風通しの良さ。その喜び。その厳しさ。表現物が感じさせる感覚なんてものは所詮予感に過ぎないとは思うけど、それでいいんだ。その予感こそを感じさせたい。

ステータス、アイテムバリエーション、生物の多様性、説得力があり表現力に富んだマップ、心地よいインターフェース、ストレスにならない操作性、媚びてないのにリアルなキャラクター、そういったものをただ一箇所に向かわせたい。

05091501.jpg24歳ぐらいまで住んでいた町。古い工場目当てでふらっと寄ってみた。もともとこの辺は河に挟まれた0メートル地帯で、鍍金工場やプレス工場などの下請け工場のバラック建築がひしめいていたところだ。ガラージュの世界観なんかもこの町からかなりのインスピレーションを受けている。とはいっても時は既に2005年。今時そんなバラック建築が残っているわけも無い。写真はかろうじて昔の面影を感じさせる建築物たち。 05091502.jpg05091503.jpg05091504.jpg05091505.jpg05091506.jpg05091507.jpg05091508.jpg05091509.jpg05091510.jpg

05091401.jpg05091402.jpg05091403.jpg05091404.jpg05091405.jpg05091406.jpg05091407.jpg05091408.jpg05091409.jpg05091410.jpgこの2ヶ月ぐらいのもの。ほとんどがゲームのラフとかアイデア出しですね。

water2.jpgゲームのためのマップ描きに明け暮れている。といってもまだ素材作りの段階で実際に使用するマップは一枚も出来ていない。

自分がどれぐらいのクオリティでマップを仕上げたいのか。どんな光で、どんなディテールでそこにあるのか。そういうことを試行錯誤しながら一つ一つ決めていく。たとえば草のテクスチャが上手く行くとそれまでいいと思えていた地面のテクスチャが良くなくなる。地面と草が上手く行くと樹が上手いこと描けなくなる。こういうことの繰り返し。これらの問題は俺が最終的なビジョンをしっかりと掴んでいないから起きる。草だけをハイコントラストのカリカリのディテールで仕上げたところで、その上に似たような樹が自然に生えるわけが無い。空間と光が掴めていないのだ。でもこの果てしない作業を繰り返していれば多少は学習もするもんだ。ちょっとづつ自分が居る場所が見えてくる。

こういう作業ではまりすぎると先に進めなくなる。よくある罠だ。だけどもうちょっと詰めないと。このわがままが許されることって凄く幸せだ。

04:42
樹や草や地面など一つ一つはかなりコントロールできるようになってきたんだけど、それぞれのバランスがまだ取れていない。この問題はほとんどクォータービューの視点によるものだ。たとえば一面に敷き詰められた草原に生える樹木。牧草地みたいな草原や芝生の草原に樹を生やすのは簡単だ。色のコントラストも明度のコントラストも簡単に作れる。ところが立体的で多様な植物が生えた草原に生やそうとすると、とたんに難しくなる。

これがヨコからの視点だったら、空気遠近法や空間の構成でいくらでも回避する技はあるんだけど、クォータービューだとそうは行かないのだ。毎日樹や草を見まくっているんだけど、まだつかめない。早くしないと葉っぱが落ちちゃうよ。

07:15
ゲーム画面をデザインしたり描いたりしていつも思うのは、「絵になりにくい」ところをいかに無くすかって事だ。スクロールしない絵だったり、量産を前提としない世界なら、いくらでも「絵になる」画面を作ることが出来る。でもゲームはそんなに甘くない。もっと細やかに丁寧にバランスをとってあげないと大雑把で不明確なところがどうしても出てきてしまう。なんとかしてそれを回避したいんだけど。

こういうのって映画や漫画にも言える気がするな。

07:55
スクロールするってことは、あらゆる場所に奥行きを無視して焦点があっているということだ。それはとても不自然なことなんだけど、そういう画面にはとても惹かれるし、絵ってそもそもそういうものなんじゃないかとも思っている。「記号的」で「人工的」で「装飾的」。ただ、これまでに開発された絵の技法に今やろうとしていることが当てはまらないだけで、絵という現実の解釈の仕方には背いていないやり方のはずだ。写真ではこういうのをマルチフォーカスといったりするけど、ちょっとしっくりこない。もうちょっと拡大してフラットフォーカスとでも呼びたい気持ち。
08:28
フラットフォーカスってエロくない?
08:37
ボッシュやブリューゲルはけっこういい線行ってると思うんだけど、やっぱりかなり都合のいい空間を構成している。これは別に彼らの作品の質の問題ではなくて、時代のリアリティの問題だと思う。俺が欲しいものはそこにはないけど、その時代においては充分にリアルだったんだろうなってことは感じられる。同様にペルシャのミニアチュールとか源氏物語絵巻とか宗達の屏風とかもフラットフォーカスだ。今ここに上げた作品はどれも大好きで沢山喜びを貰ったものだ。でも欲しいものはそこにはないし、それで当然だと思う。

過激じゃなくていい。過激さは邪魔だ。
重要なのは敏感であることだ。

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