January 2007Archive

JUGONG_000581.jpgゴジラのとても太くてとても重くてとても短い足(もちろん「最初の頃の」ゴジラの足だ、と、曖昧に言っておこう)。

あの足を一歩踏み出すためにどれだけのエネルギーが必要とされることだろう。それはもう、もしも、あの大きさの生物が存在したとすればの話しだが、どのような種も比較にならないほどの膨大で無駄なエネルギーであるはずだ。

ゴジラのような生物が生きていくためにあの足は相応しくない。ここにゴジラがゴジラである全てがある。ゴジラはフリークスなのだ。もしくは、病を病んでいるのだ。ゴジラとは異形であるからこそゴジラなのだ。そして、異形であるということは、その生物が本来まっとう出来るだけの生を享受できる可能性が極めて低いことを意味する。

生物としてのリアリティは、正常形だけをもって語られるべきものではない。分類できるものだけが、測定できるものだけが、リアルなのではない。リアリティとはあらゆるものが、区別なく個別のものとしてある状態にこそ宿る。

ゴジラのリアリティとは儚さである。その重い足を一歩踏み出すごとに死に近づいていく儚さである。ゴジラが電車を食いちぎることも、戦闘機をなぎ払うのも、その儚さの上で、切ない暴力となるのだ。

もっとゴジラを思おう、と思った夜。

作ることの喜びがもたらす浮かれた気分と、作らざるを得なくなったときの出発点が持っていた孤独との、そのあいだを生きられるように努力しないといけない。

モチーフについて考える。なにを描きたいかではなくどうしたら描けるか。

物欲や性欲、いたたまれない寂寥感やあふれるほどの野心。なにかそういう切羽詰った、ように見える、ものじゃなく、そうじゃなく、もっと骨太で、荒地を切り開くような行動力が必要とされる、しかも正しく一人ぼっちな、そういう場所から生まれてくるモチーフ、というものがあるはずだと思う。

形にするために必要なのは、当たり前すぎるけど、手を動かすことなのだから。

目指す場所のために必要なこと。それは自分の欲望でありながら、他人事のように冷たい。その冷たさこそが重要なのだ。その冷たさは目指す場所が間違っていないということの証であるし、同時に不毛としか思えないぐらい厳しい。でも、そんな場所でこそ体と手は喜ぶものなのだ。

スケール感が気になる。それは例えば模型の縮尺であったりもするわけだけど、そういう狭い意味でのスケール感だけではなく、生活尺度とか、スピードとの比較においてとか、所有に対する欲望のあり方とかを含めた、かなり広い意味でのスケール感だ。

今に相応しいスケール感というものがあるのだ。それを求めて世界も表現物も変化していく。流通も市場もプロダクトもアートも変化していく。

興味があるのは、遅くても、密度によってスピードが保たれるようなスケール感。時計によって測られる単純なスピードと、優位性に対する羨望によって生み出されるくだらない差異のインフレーションの世界ではなく、社会という枠組みをもっと個人の生活レベルまで、可能な限り引き寄せた上でのスケール感。それは技術の革新と市場経済の爛熟のあとにしか生まれない新しい価値体系であるはずだ。そういう世界を見てみたい。

2007_nenga.jpg今年は新年早々ノロウィルスにやられて更新が遅くなってしまいました。画像は例によって架空生物シリーズの年賀状です(使いまわしですんません)。本年もどうぞよろしく。

ってことで、トップ画像を更新しました。また今年もヴァニラギャラリーで個展をやります。今度の展示は絵と箱が半々ぐらいの新作になる予定です。ぜひ覗きに来て下さい。

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