February 2007Archive

久々に絵を描きまくっている。次の個展で、箱ではなく、絵の新作もお願いしますと要求されたことがあるだけでなく、そのほかにも絵で結果を出さないといけない仕事がいくつかあって、丁度いい機会だからと、ホントに久しぶりに自分の絵の技量を、その放り出したくなる稚拙さを含めて味わっているところなのだ。

意外なことに(本人は意外だと感じたのだ)、これが結構楽しかったりする。下手だということは喜びの源泉だ。なぜなら、下手であるからこそ発見があるからだ。そんなのプロじゃないと、誰かさんは言うかもしれない。でも、それさえもどうでもいい。そういう話はリクルートチックなHOW TO本にまかせておけばいいのだ。

日本における職人という言語概念は、否定するどころか好きだったりもするんだけど、現代における職人、もしくはプロフェッショナルという言語概念には違和感を感じる。なぜならそこには、作家個人における創作の喜びという、もっとも原初的で幼稚で、なおかつ最重要な価値の居場所があまりにも少なすぎると思うからだ。

なにかが下手な人間には、もしくは下手だと感じる人間には、喜びの湿地帯が広がっている。そう思う。この喜びはもちろん安易ではない。だって湿地帯なんだから。別にマゾヒストじゃなくたって、沈むことも喜びだと、あえて言い切るぐらいの元気は、誰にだってあるんじゃないかと思うのだ。生きてる限りはね。

そんなわけで、この馴染みの湿地帯を進んでいる作場は、例によってちゃんと展示に間に合うのかという危険も孕みつつ、いい感じで毎日の一歩を、ずぼり、ずぼりと歩んでいるのです。

撮影台としての完成度を求めることはなんてつまらないことだろうと思う。これはミニチュアの話だ。

写真、もしくは映像に出力されることを前提にしたモデルは、それが表現の完成形であるならまだしも(最初から撮影されるために作られたという意味で)、モデルの実物そのものが欲望の対象として作られたはずであった場合にはとても不幸な物体としてその残骸をさらすことになる。

そのようなモデルに欠如しているものは、光、空(もしくは表現として閉じられた空間)、空気だ。これらの要素は撮影時に補完されるものであって、表現物には内包されない。

同じ事が絵画にも言える。印刷物でイメージを膨らませて、実物はどんなに素晴らしいだろうと想像していたのに、ご対面してみたらがっかりしすぎて戸惑いのあまり身のやり場がなくなって、嘘つきになって舌を抜かれたり、崖っぷちから身を投げたくなったというような経験はないだろうか。俺はアリまくる。

これは物体としての絵画が、フォトジェニックには素晴らしくても(印刷物においては、印刷栄えのする作品は実物を越えて観客の想像力を喚起するものだ)、実際の存在としては、たとえばマチエールであるとか、額縁であるとか、展示されている空間や照明であるとかにおいては、表現されたイメージを伝えるために的確ではない、もしくは考えられていないために起きる不幸なのだと思っている。

フォトジェニック(写真映りがいい、ぐらいのくだらない意味だ)であるということはなんて罪作りなのだろう。そしてなんてつまらないのだろう。だが驚くべきことにフォトジェニックの脅威は、完璧なベースメイクが施されたベルベットのように滑らかな30代の頬っぺたを見るまでも無く、地球の温暖化を遥かにしのぐ勢いで拡大し続けているのだ。

写真映りを超えた、そこにあることの経験を提供できなくてどうするのだ。例えまだ負けている部分があるにしても、それを目指さなくてどうするのだ。旨そうな食い物より、旨い食い物の方がいいに決まっている。旨そうに見えるだけで、実はマズイ食い物と、旨そうに見えて、ホントに旨い食い物を見分けられることは大事だけど、そしてそのためには、マズイものもたらふく食うわけだけど。その上、マズイものにノスタルジーを感じてしまったりすることもあるわけだけど、とにかくそれを超えていこうと、それが無けりゃ、どんな面白いものがあるのかと途方に暮れるしかないじゃないかと思ったのだった。

俺が見たいのは撮影台ではない。撮影台は、クソ当たり前だけど撮影されるために作られるべきなのだ。

技術がある程度確立されているにもかかわらず、トレースではない、そんな新しい作業は至福だ。

目の前でそこに実現していくことが、比喩ではなく足を一歩踏み出すように形を成していく。フレッシュな散歩。フレッシュでない散歩なんて、散歩でさえないけれど。

視覚のリアリティについてずっと考えている。リアリティとはもちろん「認識」を経た上での表現であるわけだけど、ここで言わんとしているリアリティは、何が表現されているかとか(モチーフ)、どのように歪んでいるかとか(デフォルメ)、どんな動きをするかとか(スピード)、というような意味でのリアリティではなく、単純に空間の認識としてのリアリティだ。

つまり、ある空間がどのような条件にあるときに最高の違和感をもってそこに存在し得るのか。

主な要素は三つだ。光、被写界深度、奥行きの増幅。

光はその場所に属した光であるように隔絶されていなければならない。夕日が、その水平な光で、普段は黒ずんだ樹の幹を鮮やかなオレンジに照らし出すとき、奇跡のような祝祭が催されるように。

被写界深度には二つの方向性がある。全てに焦点があっているか、極わずかにしか焦点が合わないか。ボケとピント、そして彩度。この要素は距離感を狂わせる。大事なのは狂わせるということだ。距離感の狂った世界を前にした人間は、もう一度、世界を計り直す必要性迫られる。それは手を前に出したくなるということだ。これを絶対的な遠さと言い換えてもいいかもしれない。

奥行きの増幅は被写界深度に従うが、独自な拡張性も持ち合わせている。これはマジックだ。鏡と圧縮的遠近法がそれを実現するだろう。

ここにもうひとつの要素として視差を加えてもいいのかもしれないが、視差は被写界深度に収束されるように思う。

昔から、ずっと同じリアリティを追い求めている気がする。絵は、もちろんこれらの要素を全て含んだ上で、一つのスタイルを確立した表現形式であると思うし、絵には絵に対する自分の欲望がしっかりとあるんだけど、立体としての空間の誘惑を退けることが出来ないのだ。見たいものを見たい。それさえも指先からすり抜けていくのは判っていても。

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