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20070203: 撮影台はつまらない

撮影台としての完成度を求めることはなんてつまらないことだろうと思う。これはミニチュアの話だ。

写真、もしくは映像に出力されることを前提にしたモデルは、それが表現の完成形であるならまだしも(最初から撮影されるために作られたという意味で)、モデルの実物そのものが欲望の対象として作られたはずであった場合にはとても不幸な物体としてその残骸をさらすことになる。

そのようなモデルに欠如しているものは、光、空(もしくは表現として閉じられた空間)、空気だ。これらの要素は撮影時に補完されるものであって、表現物には内包されない。

同じ事が絵画にも言える。印刷物でイメージを膨らませて、実物はどんなに素晴らしいだろうと想像していたのに、ご対面してみたらがっかりしすぎて戸惑いのあまり身のやり場がなくなって、嘘つきになって舌を抜かれたり、崖っぷちから身を投げたくなったというような経験はないだろうか。俺はアリまくる。

これは物体としての絵画が、フォトジェニックには素晴らしくても(印刷物においては、印刷栄えのする作品は実物を越えて観客の想像力を喚起するものだ)、実際の存在としては、たとえばマチエールであるとか、額縁であるとか、展示されている空間や照明であるとかにおいては、表現されたイメージを伝えるために的確ではない、もしくは考えられていないために起きる不幸なのだと思っている。

フォトジェニック(写真映りがいい、ぐらいのくだらない意味だ)であるということはなんて罪作りなのだろう。そしてなんてつまらないのだろう。だが驚くべきことにフォトジェニックの脅威は、完璧なベースメイクが施されたベルベットのように滑らかな30代の頬っぺたを見るまでも無く、地球の温暖化を遥かにしのぐ勢いで拡大し続けているのだ。

写真映りを超えた、そこにあることの経験を提供できなくてどうするのだ。例えまだ負けている部分があるにしても、それを目指さなくてどうするのだ。旨そうな食い物より、旨い食い物の方がいいに決まっている。旨そうに見えるだけで、実はマズイ食い物と、旨そうに見えて、ホントに旨い食い物を見分けられることは大事だけど、そしてそのためには、マズイものもたらふく食うわけだけど。その上、マズイものにノスタルジーを感じてしまったりすることもあるわけだけど、とにかくそれを超えていこうと、それが無けりゃ、どんな面白いものがあるのかと途方に暮れるしかないじゃないかと思ったのだった。

俺が見たいのは撮影台ではない。撮影台は、クソ当たり前だけど撮影されるために作られるべきなのだ。

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