April 2007Archive

solitude_ad.jpg作場知生展[solitude]開催中です。
んで、今回ギャラリーの決まりで写真撮影禁止になっていますので、展示風景や作品の画像を早めに公開することにしました。遠くて来られない人やブログなんかで紹介に画像を使いたい人はご自由に落としてください。

こちらからどうぞ。

07042301.jpg07042302.jpg07042303.jpg今日4/23から作場知生"solitude"展いよいよ始まります!
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■銀座ヴァニラ画廊 入場料:500円 
営業時間:日曜休廊12:00?19:00
     土・祝日12:00?17:00

5/4 17:00? トークイベント
ゲスト:宮原清氏
1000円(入れ替え制 1ドリンク・限定ミニプリント付き)

サクバの居る日?4/23・26・28・5/3・4・5
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今回の目玉は画像中央に見えているデカイ箱です(ついでにプリントもデカイ!しかもほとんど新作)。本物を見ないと分からない仕掛けがあります。ぜひぜひ見に来て下さい!

メディアとしての絵ってとても弱いものだと思っている。不完全だといってもいい。そしてその弱さや不完全さが気に入らなくてしょうがない。ずっとそうだった。

絵が描けるなら漫画を描けと思う。ゲームを作れと思う。アニメを作れと思う。違う観点から言えば、設計図を描けと思う。額縁を作れと思う。教会を建てろと思う。

素晴らしい絵はもちろん素晴らしい。だから素晴らしい絵を描くのだって素晴らしい。それでもなお、絵は不完全だ。

これは機能の話しだ。機能とは使い道だ。包丁があれば魚や哺乳類や植物を捌ける。バイクがあれば300キロでぶっ飛ばして嘘みたいな時間で遠いところに行きつつ、とんでもない緊張感と細胞が沸き立つのを経験できる。ポットがあればお湯が冷めないし、カップラーメンがあれば三分待つだけで胃袋を満たすことが出来る。それが機能だ。

じゃ、絵の機能ってなんだ。
家に絵があったら幸せか?なにがしたくて絵を手に入れるんだ?画集は本だ。あれは絵のフリをしているけど絵じゃない。出来損ないの漫画みたいなもんだ。ここで問題にしているのはたった一枚の絵がもたらす機能だ。だいたいが絵を平面としてみて、その上で絵を楽しむなんてのはごく限られた人がすればいいことであって、そんなものが一般化しないことを嘆いてみたところでそれこそオナニー以外の何者でもない。機能を伴わない製品は滅びる。でもこんなこと言っているけど、絵が嫌いなわけじゃない。俺は絵画的言語を愛しているし、絵画的言語によってコミュニケーションをとるのが好きだし、そのコミュニケーションによって救われたり喜んだ経験がいくらでもあるし、絵画的言語を通してこの人が存在してくれていたことがホントに嬉しいと思ったこともあるし、それらはもちろん絵の機能なわけだ。ただしこの絵画的言語は絵の機能としては不十分だ。なぜならそれは器を伴わないからだ。

美術館やギャラリーが嫌いだ。あんなの器でもなんでもない。行列を作って一体なにをしにいくんだ、あんなところ。絵画的言語によるコミュニケーションをしにいくのか?ありえない。もっとも相応しくない場所じゃないか。要するにショップでしょ?美術デパート。もっとショップとしての誇りと気概をもってプロデュースするべきだ。将来コンビニでエロ本コーナーの隣にサクバのプリントが並ぶようになるのが夢なんです。でもそうはならない。コストパフォーマンスが悪いからエロ本に負けるに決まってる。だからこそ機能を形にする必要がある。

次の個展、あそこでやるのは三回目になるけど、今までも絵の機能を(泣きたくなるぐらい不十分ではあるにしても)絵の中だけに求めるようにではなく展示をしてきたつもり。それがどれぐらい効果があったのかはわからないけど、今度も何かしらはしないと意味が無い。一枚の絵の完成度より、空間や経験の強度が欲しい。そうじゃないと絵が描けない。

絵はやわらかい。粘土とか、言葉とか、音とかも、似てる。
絵で失敗しても、誰かが死んだりしない。まずい表現をしても誰も困らない。たぶん。空回りして困る本人がぽつねんと取り残されることがあるにしてもだ。

そんなことは大したことじゃないのだ。
桜が咲くことや、カマキリの卵が孵化することに比べたら、ほんっとに取るに足りないことだ。

でもここで表現という概念を一歩拡大して考えると、それが途端にコミュニケーションとか国家とか経済とか法律とかまでに行き着いてしまうという現実に突き当たる。

逆に言えば、絵でも粘土でも言葉でも音でも人は死ぬ。それらが拡大されたときには。あっけないほど簡単に。そしてじつのところやわらかい絵は絶滅寸前なぐらい危機に晒され続けてもいる。それでもなお、絵はやわらかいのだ。なぜならそれが本質だから。

いや、そんなことが言いたかったわけじゃない。絵がやわらかいのがつまらないということが言いたかったのだ。ああ、違う。絵はやわらかいんだから気を付けろと自分に警告したかったんだ。

絵なんて、硬いものがあって初めて存在するものだ。粘土も音も言葉もそうだ。硬いものとはカマキリの孵化とか桜が咲くことだ(国家や経済ではない。これらはまた別のフェーズで機能する)。それらは起きるべくして起きる。そして起きた方向性に対して身体が全力を尽くす。硬さとは要するに不可抗力に近い経験の強度みたいなもんだ。それはカツンとしているかもしれないし、ネバネバしているかもしれないし、どんよりしているかもしれない。どっちにしても空間の密度が上がるという意味においてそれを前にしたものにとっては硬いのだ。

時として絵とか物語とかゲームとかがもたらす万能感が嫌いだ。それらはやわらかさの上にあぐらをかいているものだからだ。万能感が欲しくて絵を描くことの誘惑はいつでもどこにでも転がっているけどそこにだけは行きたくない。でも困ったことに万能感を表現することの方がとっても簡単だったりもするんだよな。

11:45
ゲームが教えてくれた宝物は、何でも出来ることのつまらなさと、それでも終わらない欲望があるということだ。皮肉のようだけど皮肉じゃない。

なにが続きなのかというと、きのうの日記の「気分」が続いているのです。

こんなに葉っぱだの花だの鳥だのがムクムクしているときに、でろーんとした気分を引っ張ることも無いだろうとは思うんですが、それはそれ。不自然極まりない現代人としては、何日にも渡って同じ気分を引きずったりもしちゃうわけですよ。そりゃもう、電車の座席に座っている女の子の高そうなカバンが、ただの牛の死体のケツの皮の延長であるという動かし難い事実であると共に、そこに頬ずりする情景の当たり前さがこうやって作為的な言葉を使って表現してみることとは裏腹にどれほど普通であるかという事実の前に打ち砕かれることも無く並列に存在するぐらいどこにでもあることなわけです。

不気味であるということはかくも儚い。
おお、それは素晴らしいことではないか!

なぜに急にプロパガンダチックな文語調になってしまったのかはさておいて、人は死体と共に生きていることの当たり前さと、あらゆる死体が他人事じゃなく、それはおまえ自身の死体なんだぜ、っておい、わかってんのかよ、ってところがどうにも曖昧に毎日が過ぎていくことに腹が立つのです。

欲望の極点は、とりあえずは例えば、犬橇を駆って目指すべき北極点として現れたりもするし、泥酔の限界の果てに見出す朝日の神々しさとして現れたりもするけど、その分かり易さは人を誤らせる。そこではつまるところ、分かり易さとは言語への変換し易さでしかない。そんなものが欲望の極点に成りうるとしたら、それこそつまらなさ過ぎて生きているのを止めたくなる。北極点も泥酔も、それらがプロセスに対する器として働いているときにしか意味が無いのだ。

とか、くだらないことをほざいてないで絵を完成させようっと。

08:06
ウンコを食っても人は死にません。それは知ってる。 でも、ウンコを食って人が死ぬこともある。たぶん。 どれぐらい食ったかとか、どんな時に食ったかとか、どんな風に食ったかとか、そうやって、いくら分析していってもこぼれ落ちるものがあって、や、たまたま今トイレにいって思いついたからウンコなだけなんだけど、ウンコと自分が向き合うということは、始めて告白した彼女と向き合ったり、親が憎くて外側にムニュっとしちゃったり、友達だと思っていた犬に吼えられて噛まれちゃった時に、いつも現れるような、要するに他人とか世界ってもんは、自分ではないと同時に、それらがあるからこそ、自分が居るようにどうしようもなく自分なものとしてしか、もういっかいどうしようもなく、ウンコは他人として自分なわけです。

口に入れたり、手を動かしたり、するってことは、集めたり、分類することとは違う。違うなぁ。

08:44
私とはなんですかという問いに、それは私以外の全てです、と答えられるようになりたい。それ以上にワガママなことなんて思いつかない。

恋多き俺

08:54
自我なんてアンテナで充分だし、充分すぎる。そういえば最近、体がただの入り口と出口のある水袋のように思えてしょうがなかったのだ。

胃袋や血管のなんと単純なことか。

やっと個展のことだけに集中できるようになって一週間。そんでもって残りは2週間とちょっと。なんとも笑える構図の中を漂いまくってます。

分かったことがいくつか。

・絵なんて絵だ。逆に言えば、絵じゃなきゃならない。女の子を描こうが、機械を描こうが、とにかくそれは絵なのだ。当たり前だけど、この単純すぎることがなかなか理解できない。

・知っているものしか描けない。知らないなら知るべきだ。そして描く事もまた知ることだ。当たり前だけど、この単純すぎることがなかなか理解できない。

・実用品を作る人や発明家が羨ましくてしょうがない。つか、凄い。どこが凄いかって、ここには何ミリのネジを使うべきかとか、どうしたら動きを 90度曲げられるかとか、鋳型を作って1000回ぐらい回転させても大丈夫な軸受けを作るとか、それらをこうしたら面白いんじゃないかとか、こうすれば壊れないんじゃないかとか、って発想で現実に実現しちゃうところが凄い。こんだけ機械や生物が好きでいろいろ見てきたつもりなのに、肝心なことはホンのちょっとしか理解していなかったってことがようく分かった。

・古いものが好きなわけじゃない。つかどうでもいい。ただ、古いものには見出し易くて、新しいものには見出しにくいものがあるのは確かだ。俺が好きなのは個人が見えるものなのだ。それは作る側だけでなく、使う側にも言える。

07:08
機械とはその全てがコミュニケーションマシンなのかもしれない。そこには絵も言葉も含まれる。

ただしコミュニケーションは共感だけを意味するものではない。共感はコミュニケーションの一つの側面に過ぎない。もしくは共感の内にさえ暴力も疎外もあるのだと言った方がいいのかもしれない。

07:13
機械はアンチコミュニケーションマシンにも容易に成り得る。言葉がそうであるように。
07:38
暴力的でない影響がどこにあるというのか。程よい暴力と度を越した暴力の間にどれほどの違いがあるというのか。

醜さは、暴力の程度にではなく、立ち位置にこそ宿る。どれほど過剰な暴力であれ、美しいものは美しい。

07:42
この偉そうな口調はどうにかした方がいいんじゃねぇのか。

偉そうな口調のいいところは、キーボードをたたく回数が少ないことで、それ以上じゃない。

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