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20070405: 続き

なにが続きなのかというと、きのうの日記の「気分」が続いているのです。

こんなに葉っぱだの花だの鳥だのがムクムクしているときに、でろーんとした気分を引っ張ることも無いだろうとは思うんですが、それはそれ。不自然極まりない現代人としては、何日にも渡って同じ気分を引きずったりもしちゃうわけですよ。そりゃもう、電車の座席に座っている女の子の高そうなカバンが、ただの牛の死体のケツの皮の延長であるという動かし難い事実であると共に、そこに頬ずりする情景の当たり前さがこうやって作為的な言葉を使って表現してみることとは裏腹にどれほど普通であるかという事実の前に打ち砕かれることも無く並列に存在するぐらいどこにでもあることなわけです。

不気味であるということはかくも儚い。
おお、それは素晴らしいことではないか!

なぜに急にプロパガンダチックな文語調になってしまったのかはさておいて、人は死体と共に生きていることの当たり前さと、あらゆる死体が他人事じゃなく、それはおまえ自身の死体なんだぜ、っておい、わかってんのかよ、ってところがどうにも曖昧に毎日が過ぎていくことに腹が立つのです。

欲望の極点は、とりあえずは例えば、犬橇を駆って目指すべき北極点として現れたりもするし、泥酔の限界の果てに見出す朝日の神々しさとして現れたりもするけど、その分かり易さは人を誤らせる。そこではつまるところ、分かり易さとは言語への変換し易さでしかない。そんなものが欲望の極点に成りうるとしたら、それこそつまらなさ過ぎて生きているのを止めたくなる。北極点も泥酔も、それらがプロセスに対する器として働いているときにしか意味が無いのだ。

とか、くだらないことをほざいてないで絵を完成させようっと。

08:06
ウンコを食っても人は死にません。それは知ってる。 でも、ウンコを食って人が死ぬこともある。たぶん。 どれぐらい食ったかとか、どんな時に食ったかとか、どんな風に食ったかとか、そうやって、いくら分析していってもこぼれ落ちるものがあって、や、たまたま今トイレにいって思いついたからウンコなだけなんだけど、ウンコと自分が向き合うということは、始めて告白した彼女と向き合ったり、親が憎くて外側にムニュっとしちゃったり、友達だと思っていた犬に吼えられて噛まれちゃった時に、いつも現れるような、要するに他人とか世界ってもんは、自分ではないと同時に、それらがあるからこそ、自分が居るようにどうしようもなく自分なものとしてしか、もういっかいどうしようもなく、ウンコは他人として自分なわけです。

口に入れたり、手を動かしたり、するってことは、集めたり、分類することとは違う。違うなぁ。

08:44
私とはなんですかという問いに、それは私以外の全てです、と答えられるようになりたい。それ以上にワガママなことなんて思いつかない。

恋多き俺

08:54
自我なんてアンテナで充分だし、充分すぎる。そういえば最近、体がただの入り口と出口のある水袋のように思えてしょうがなかったのだ。

胃袋や血管のなんと単純なことか。

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