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20070407: やわらかいもの

絵はやわらかい。粘土とか、言葉とか、音とかも、似てる。
絵で失敗しても、誰かが死んだりしない。まずい表現をしても誰も困らない。たぶん。空回りして困る本人がぽつねんと取り残されることがあるにしてもだ。

そんなことは大したことじゃないのだ。
桜が咲くことや、カマキリの卵が孵化することに比べたら、ほんっとに取るに足りないことだ。

でもここで表現という概念を一歩拡大して考えると、それが途端にコミュニケーションとか国家とか経済とか法律とかまでに行き着いてしまうという現実に突き当たる。

逆に言えば、絵でも粘土でも言葉でも音でも人は死ぬ。それらが拡大されたときには。あっけないほど簡単に。そしてじつのところやわらかい絵は絶滅寸前なぐらい危機に晒され続けてもいる。それでもなお、絵はやわらかいのだ。なぜならそれが本質だから。

いや、そんなことが言いたかったわけじゃない。絵がやわらかいのがつまらないということが言いたかったのだ。ああ、違う。絵はやわらかいんだから気を付けろと自分に警告したかったんだ。

絵なんて、硬いものがあって初めて存在するものだ。粘土も音も言葉もそうだ。硬いものとはカマキリの孵化とか桜が咲くことだ(国家や経済ではない。これらはまた別のフェーズで機能する)。それらは起きるべくして起きる。そして起きた方向性に対して身体が全力を尽くす。硬さとは要するに不可抗力に近い経験の強度みたいなもんだ。それはカツンとしているかもしれないし、ネバネバしているかもしれないし、どんよりしているかもしれない。どっちにしても空間の密度が上がるという意味においてそれを前にしたものにとっては硬いのだ。

時として絵とか物語とかゲームとかがもたらす万能感が嫌いだ。それらはやわらかさの上にあぐらをかいているものだからだ。万能感が欲しくて絵を描くことの誘惑はいつでもどこにでも転がっているけどそこにだけは行きたくない。でも困ったことに万能感を表現することの方がとっても簡単だったりもするんだよな。

11:45
ゲームが教えてくれた宝物は、何でも出来ることのつまらなさと、それでも終わらない欲望があるということだ。皮肉のようだけど皮肉じゃない。

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