October 2007Archive

潜るという表現が好きでよく使っていた。でも、トンネル掘ることのほうが重要だとさっき思った。

どういう時に潜ると言っていたかといえば、作品を作っていて、より自分の潜在的な欲望なり、作品が求める深さなりを正確に、かつ経験したことのないレベルで実現するために、自分自身を追い込んでいくようなベクトルを表して、潜ると言っていたつもりだった。

でも潜れるのは底までだ。底に着いたらおしまい。規定の深さは日常的に忘れ去られている発見を伴うにしろ限界がある。自分が既に掘った穴の深さが変わるわけじゃない。トンネルを掘らない限り。

かと言って、実は誰もがトンネルを掘っているのだ。意識しているにしろしていないにしろ、時を重ねさえすればトンネルは掘られていく。そういうものだと思う。

そのように体は勝手にトンネルを掘る。心も掘らなければ、体のトンネルに追いつくことは出来ない。つか、ここまで来ると、潜るという言い方で何にも問題ないわけだが、もう一歩の積極性として「掘る」というポジティブな行為を当て嵌めることはとっても重要なことだと思ったのだ。

日常性の延長にあるポルノはつまらない。そこで行われている行為がどんなに非日常的であってもだ。問題は当事者においての日常性であって、社会的規範においての日常性ではない。つまり、当事者において日常的であるなるなら、それは日常の延長でしかないということだ。

行為の社会的過激さは問題ではない。当事者においてどれだけフレッシュな生肉であったかたかということだけが問題なのだ。

フレッシュな生肉を求めるのが正しい、それを求めなくて何を求めるのか。

全ての人間に、死が訪れる、という、平等さは、素晴らしい。

それが無い世界なんて、すんげぇつまらない。

意地悪だったり、ダークだったり、嫌がらせだったり、ひねくれだったり、っていう、そういうものじゃなく、だれもが、死ぬ、俺も死ぬ、その瞬間を迎えることが出来る、その未来感を伴った経験が、自分の人生に必ず起きる、これ以上に素晴らしいことなんて思いつかない。

それを早めたら、起きて欲しいことは起こらない。そのようにしか、起きてほしいことは起きない、つまり起きるべくして起きるようにしか起こらない。その微妙な狭間で、その微妙に見えるけど、そこしかない狭間で、生きようとしている自分が愛おしくて好きだ。

Powered by Movable Type

Profile

Archive

Feeds