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20080629: 自我とか自己とか

かつて、自我とか自己とかは、権力を持った支配者や貴族や王族に生まれた意識であるといわれていた。いや、今でも言われている。そこから、産業革命が起きたり商業が力を持ったりする時代になって、自我や自己は資本主義的優位性を持つもの全てに行き渡るぐらい一般化した。そしてさらにそこから、メディアの力が増大することによって、学校に行くだけで、日記を書くだけで、テレビを持つだけで、ネットに繋がるだけで、いとも簡単に誰もが自我や自己と向き合わざるを得ないような時代が到来した。そしてこれから、iPhoneが普及したり、動画の配信がさらにさらに容易になったり、ネットワークへの接続速度が100倍ぐらいになったり、職人的技術だと思われていたものが、簡単にテクノロジーによって肩代わりされたり、今日のウンコが国家のデータベースに管理されたり、するようになると、たぶん、個人の中に、資本主義、とか言われていた物が完全に内在化されるような時代が来るんだろうと思う。だれもが個人企業でもあり、誰もがメディアでもあり、誰もがアイドルであり、誰もが死に行くものとしての仮面を被るのだ。表現としての自己。でも、自己だの自我だのなんて、結局のところただの表現でしかないんだよ。資本主義がそうであるように。表現なんてクソだ。ウンコだ。否定ではなくその通りだ。やっと正しくウンコが出来るかどうかが問われる時代が来るのだ。そしてウンコは正しくウンコになるのだ。そしてそれはなんともアホらしい事に、自我とか自己とかが発明される以前から存在し続けていた出発点に過ぎないのだ。

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