カップ麺が目指したものは永遠の生命のフリだ。
それは腐らず、それはお湯を加えさえすれば戻すことが可能で、可変的な永続の時間を予感させる。そのようにミイラなのだ。
ミイラにお湯を注ぐ。単純すぎる再生の儀式を幼稚園児でさえ実行できる。そこにある嘘、そして詐欺、は一瞬飛び越えられる。飛び越えられたように振舞う。そのリアリティを保障してしまうのは、満腹感であるけれど、ミイラを受け入れることは、特別なことではなく、ただの干し肉、もしくは梅干、もしくは梅酒、とかの、それらが実現しているミイラ的な現実と何の違いも無いのだ。
干し肉としての人体を人は想像することができない。少なくとも、干し肉としての自分を想像することはできない。干し肉と化した、物体と、自分との距離を、
発見したのだ。さっきの俺が。


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