立ち位置がブレている時には何も出来ない。
今まさにブレている真っ最中かもしれない。
それは逆に言えば、立ったことのない立ち位置を探している最中だということも出来る。でも、こんな言い方は、探している本人にとってはぬるま湯以外の何者でもない。
興味の中心、つまり時間軸や体の自然な流れの中で生まれた方向性は厳としてあるのに、それがどうも自分が求めているものとはズレているように感じられる。そこで体に寄り添えばいいとは思えない。なぜなら、体もまた鈍ってもいるからなんだろう。それを判断するのは、この体を支配するもう一つの体だ。精神ともいえないもう一つの体。これを何と説明すればいいのかわからない。そして同時にそんな体を特殊とも思わない。ありふれているのに忘れられがちな体。そんな体に相応しい名前を付けたい。上手くいったことはないけど。
たとえば綱渡りをする体。不器用な名前。


自分が今、うっすら感じられる精神でないもう一つの体と言ったら、全体の一部としての体かなあ。
潜るよりトンネルを掘るとか流通の記事を読んでるとそういう風に見えるけど、単純過ぎるかな。
精神の定義によるけど、言語的な思考や感情、そして無意識ぐらいまでを含めて精神とした時に、例えば無意識をコントロールする意思みたいなのを、人は持つことが出来るんだと思う。昔ハマったことがある超個心理学なんかでは、こういうのを超自我とか呼んでいた。よく言われる第六感とか、怪しいところでは予知や予感なども、こういう見方から考えてみると面白い。絵を描いていてある二つの色の組み合わせが、「これしかない!」と「降りてくる」くるときってあると思うんだけど、そういうある意味憑き物状態みたいのも同じだと思っている。
要は個人や人間という種としての知ではなくて、生物や宇宙としての知なんじゃないかと思うのね。だから全体の一部としての体というのは、そういう意味ではとても近い。一部なのか全部なのかは分からないけど。