これは3年ほど前に描いた自分のゲームプロジェクト用のテクスチャーテスト画像(クリックすると拡大します)。建物の方はいまいちだけど、草はずいぶん試行錯誤している。このあとこの草原に木を生やそうとしたら途端に上手く行かなくなって座礁した。
まあ、それはいいとして、このテクスチャーで目指していたものの一つは、「そこにある感」だ。実際以上に近く、空気が薄まったかのような空間。それをジオラマ感といってみる。考えてみれば、去年作ったレンズから覗く箱も同じものを求めている。ただ単に精巧に作られた模型や、写真のように描かれた絵じゃつまらないのだ。俺の見たいものはそこにはない。そんな風には見えていない。どんな風に見えているのか、どんな風に見たいのかといえば、ジオラマ感を伴って見たいのだ。そのジオラマ感は自分の中で非常に濃密な時間に結びつく。ゾクゾクするのに落ち着く時間だ。


「そこにある感」っていうのはなんかわかる気がします。
全てのパーツにピントが合って、あらゆる粒がソリッドに存在しているような…(僕の勝手なイメージ)。
この絵を見ていると、なんだかこの中を歩きたくなってきますね。
ラブデリックの「L.O.L」というソフトがこのテクスチャとちょっと似たような質感(L.O.Lは恐らく、3Dレンダリング画像をパーツ分けして平面的に配置したもの)を持っていたんですけど、考えてみれば2DRPGのスクロール画面って、どこに焦点が合ってるのかわからない、不思議な世界ですよね。
ガラージュの背景が、割とジャリジャリッとシャープに描かれていたのも、
サクバさんの中に「そこにある感」のイメージがあったからなのでしょうか?
LOLに似たような印象を覚えるのは、一つ一つの植物が意識的にデザインされていたからだろうな。「そこにある感」を生み出す前提にはいかに対象を把握しているかが基本だから。そういう意味では2DRPGも、生物レベルではないにしろ、ドット単位での明確さが美しいと思う。欲しいものは明晰さと詩とテクノロジーとファンタジーの融合みたいな感覚なのかもしれない。
ガラージュは、結果的に言えばここに書いたような意味でのそこにある感は薄いと思う。それは半分は3D技術の問題。半分は今ほどには俺がビジョンを明確にしていなかったから。ただ大昔から、自分の能力を抜きにすれば、同じようなことを求めているなぁと思う。
静謐の一言。
リアルとアンリアルが同時に得られる感じ。
気持ちいい空間だー。
距離感がいいですよね。
ものすごく遠い場所。
電子顕微鏡をのぞいたときに見える、あの場所。
リアルタイムポリゴンでやっちゃうと、
影の表現とか動的なアドバンテージはあるけど
ここまでドット単位で見え方をチューニングできないんですよね。
奥と手前にブラーを適用して被写界深度を誇張した表現はダメ?
http://images.pingmag.jp/images/title/tinytokyotitle.jpg
組長がつくるものは、
「風景」とか「景色」いう言葉を想起させない気がする。
俺の中では「場所」って言葉が近い。
リンク先、ハイダイナミックレンジ写真だね。半年ほど前に初めて知って、画像を漁っていたことがある。被写界深度は、それがフラットフォーカスだろうと、ピンポイントフォーカスだろうと、表現する上では無視しちゃいけないものなんだろうと思っている。で、ピンポイントフォーカスは新しいよね。2Dの歴史としては。これが意識化されたのは写真とアニメーション(もしくは動画)の歴史が加わってからなんだろうな。そこで見たことない表現も生まれてくるし、それはとても楽しみ。でも、これをやるなら、俺的には立体でやったほうがずっと面白い。まあ、だから箱を作ったわけだけど。
「静謐」と「場所」という二つの単語がコミュニケーションのありがたさを運んでくれた。
作品を見ていると、
それがミニチュア的な見え方をしているがゆえに、
「君の肉体は、絶対にこの場所に立つことはできない」
って最初に言われちゃってる気がするんですね。
作品にあらかじめ仕込まれた諦念みたいなものが
そこに行きてーっていう渇望感を呼び起こすことで
場所としてのリアリティを増幅しているような。
あくまで、俺の中の話ですけどね。
ミニチュアって、
フェラーリとか、サグラダファミリアとか、
実物は高くて手に入れられないから、これで我慢、みたいな
子供っぽい渇望が、本来的にセットになってる気がする。
そこには悲しみと喜びがともにある。
てより、悲しい喜び、かな。
どこか悲しいの、基本。
組長が欲しがってるのは、
その渇望感そのものなのかな。とか思った。
★
リンク先は、ほんとのハイダイナミックレンジ写真じゃなくて、
普通のレンズで撮影したものをフォトショ加工したなんちゃって写真です。
この場合、奥行きが上下に展開してるから
上のほうと下のほうを適当にぼかすことで
擬似的に効果を得てるかんじ。
本物と比べるとビジュアル的に雑な印象がある嫌いがあるけど
上下に展開する奥行きという点では
ゲーム的なクォータービューと親和性が高いし、
奥行き情報をもたない2D作品でも
プログラム的に適用しやすいのかな、と思って。
で、貼ってみて、やっぱり雑だなーと思ったw
可視性もまた、ゲーム性にかかわってくるし。
渇望感は、言われてみればそんな感じもする。自分ではほとんど意識したことは無いけど。なぜかと考えると「そこにいつか行ける」と思い込んでいるところがあるからのような気がする。それが死ぬ前なのか、意識がぶっ飛んだ時なのかはわからないけど、内側に入った自分をいつも想像している。
でも渇望感と言ったときの絶対的な距離の感覚はまさにその通り。死ぬほど醒めるか、細胞が沸き立って分解するしかないような距離。それはとんでもなく孤独だと思う。そこで悲しい喜びを突き抜けたいんだな。そういうところはほんとロマンティスト。恥ずかしげもなく。
★
このなんちゃって効果を利用したゲームを作ったら面白いだろうね。俯瞰なのに主観視点みたいな効果は新しいし、その可視性の低さは逆にゲーム性にも活かせる。通常はモニタ画面は全て意識された視界としてクリアに保たれるわけだけど、モニタ画面が全視界として提供されるような感じになる。
「君の肉体は、絶対にこの場所に立つことはできない」ってフレーズは
前に組長が、「いつか、そこに立つ」って言ってたことを思い出しながら
あえて書いたつもり。
そら、組長はいつかその場所に立つんですよ。
たぶん、俺とか他のお客さんは置いてけぼりを食うしかない。
俺らに許されているのは、
遠い未来、その場所に立った組長から届いた
絵ハガキを指をくわえながら見ることだけ、みたいな。
俺がこれらの場所に感じる距離感は、そういう感傷も含んでます。
差出人が今立っている場所を強く想起させるメディアという意味では
この作品群は絵ハガキに似てると思う。
そういった関係性を作品がとりもつ以上、
組長の言う「とんでもない孤独」が
絶対的な孤独だとは、いまひとつ思えないかも。
"孤独でおめでとう"と言わざるを得ないかんじ。
ラレコのそういう優しいものの見方にはいつも感心する。俺の寂しさとラレコの寂しさは本質的にどっか立ち位置がずれているんだろうなと思う。自分の場合はどっかで関係性を断ち切っちゃうようなところがあるし、それを望んでいたりもするからなぁ。基本的にひねくれもの。そういう奴からは絵葉書なんていう発想は出てこない。ラレコも充分ひねくれものだとは思うけどね。
"孤独でおめでとう"、とてもいいね。すごくいい。