August 2008Archive

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ある記事によると、正確さはともかく、数十年前の日本では、出産される赤ん坊の10人に1人は死産となり、年間に2000人の妊婦が死亡していたそうだ。そして現在、出産時に死亡する妊婦は50人ぐらいらしい。現在の死産の確率は記されていなかった。おそらくその頃に比べれば非常に低い数字になっていることだろう。

正確な数字はどうでもいい。出産が昔に比べて「安全で怖くないもの」になったということを数字が裏付けているように見える、ということを引用したかっただけだ。

医療はこの数字をゼロに近づけることを目指すんだろう。「なぜ私が?」という思いをしないで済む人を増やすことが正義なのだ。

曰く、それは誰もが望んでいることなのだ。誰もわけもわからずに死にたいわけじゃないのだ。通り魔にいきなり殺されたい人は居ない(いや、何十人かはいると思うが)。病気にならないで済むなら越したことは無い(いや、何十万人ぐらいはなりたがっている人も居るだろう)。その気持ちが人の視線を隣ではなく上に向かわせた。そして人が上を向いた成果がこの数字に現れている。

今、目の前の人を救いたいという気持ちを否定する気はさらさら無い。しかし救われる側にとっては、起きることは必ず起きる。つまり救う側は当事者ではない。当事者は救われる側だ。そして当事者から逃れられる人は誰一人としていない。当事者以外の人間がすることが出来るのは迂回だけだ。迂回を迂回以外のものにすることは出来ない。当事者と当事者でないものの間に存在するのは迂回への合意だ。

俺は昔、ドブで溺れて、そこに兄と兄が呼んできた郵便配達が居たことによって、今ここに居る。その二人が居なかったら、たぶんここには居ない。つい最近、背中が猛烈に痛くなって、ヤバイと思って病院に駆け込んだ。原因はわからなかったが、尿道結石だろうと医者に言われた。そこで俺は助けを求めたことになる。つまり迂回させられたり、迂回を望んだりして生きているということだ。しかしそれでも迂回は迂回なのだ。俺は俺の当事者であることから逃れることは出来ない。

今の社会で、10人に1人の割合で死産となるということが統計学的に示されれば、子供を生もうと思う女性はかなり減るだろう。そしてそれでも生む人は絶えないだろう。


わかりやすい選択なんてフィクションだ。夏休みの予定表みたいなものだ。
アホがデフォルトでなんの問題があるのか。



私は飴を持っています。
あなたはこの飴がほしいですか?
だったら土下座しなさい。
あなたが土下座すると、私の中の飴工場が稼動して
あなたの口に飴を運ぶでしょう。
あなたの頭の重力が動力源なのです。
ところで私が誰だかご存知ですか?
私はあなたの理想です。

悲しみは忌むべきものではない
高揚の発露のバリエーションの一つだ。
そして人は高揚を通じて自分の肉体を構成する細胞の数を認識する。

サラリーマンがサラリーを得るためにする仕事には
家族への想像力は必要とされない。
サラリーマンが仕事上で家族のことを思うのは
自分がつらい時ぐらいのものだ。
それは想像力とは言わない。

家事をするためには家族への想像力が必要とされる。
ただし、家族への想像力を働かせることなく家事をすることは
少しも不可能ではない。
でも、そのような家事が行われる家族はすぐに崩壊するだろう。

つまり、共同体を維持するためには関係性への想像力が必要とされる。
関係性への想像力を働かせることが困難な共同体は淘汰される。

しかし関係性への想像力を必要としない共同体がある。
それはたとえばコンビニであり学校であり塾であり会社である。
これらの共同体に共通するのは、共同体に目的があるということだ。
目的とは
受験の合格であったり、
販路の拡大であったり、
物欲の充足であったり、
理想の実現であったり、
利潤の追求であったりするだろう。
そのような共同体では人は隣ではなく上を見る。
関係性は作るものではなく分析の対象となる。
独裁者なき独裁。

かくしてそれぞれが上を見る家族というものが出来上がる。
では、上を見る家族の目的とは何か?


19:55
話はずれるが一つだけ加えておきたくなった。

上を見る家庭に育った子供は必ず欠損を抱える。
夜空の星を見上げているのは見上げている本人だけだ。

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