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20080804: 生ぬるさの価値

生ぬるいという言葉は否定的に使われるけど、生ぬるくなかったら伝わらない価値が山ほどある。例えばお酒。冷たいお酒や熱いお酒は、お酒本来の味を無効化して単なるドラッグにしてしまう。例えばセックス。冷たいセックスや熱いセックスは物欲に駆られた体を満足させることが出来ても、生ぬるさをベースにした内的な熱の高みに辿り着くことはない。例えば散歩。冷たい散歩や熱い散歩は、ハンターとしての成果を上げることはできても、可能性としての過程は全て無視される。

生ぬるさとは、常温の非人為的な状態だ。
夏のカキ氷やプール、冬のストーブや鍋物、そういったものは体を助けてくれる。そして体が助けられるということは、常温の可能性を飛び越えるということだ。でも、そのような非常温のテクノロジーや、そこに向かう欲望を否定するつもりは無い。ただ、非常温のフィクショナルな喜びは、それがフィクショナルであった時にのみ輝くものだと思うのだ。

フィクションとは、つまり祭りだ。
なぜ祭が有効かと言えば、それは生ぬるさをベースとした身体的強度があるからなのだ。結果を求めないコミュニケーション、目の前にあるものをそのまま受け入れる経験、それらがなかったら、フィクションは力を失う。さらに言えば、常温の生ぬるさこそは、それがフィクションの土壌なのだとさえ思える。生ぬるい土から、連続的に芽を出す清冽な黄緑色をした双葉。奇妙な形をしたキノコ。常温の水温によって孵化するおたまじゃくし。

例えば現代におけるエロティシズムは、これっぽちも性的ではないとずっと思っていた。そこにフェティッシュという補足的概念が加わろうとも、なにも本質を現していないと思っていた。言語的に過ぎるのだ。生ぬるさが足りないのだ。可変的体温を無視した性的極北なんて笑っちゃう。

非人為的常温になんて辿り着けないように誰もが病んでいる。そんなことは分かっている。だって俺がそうだから。理想を布教しようなんて思わない。これはただの予感とひらめきに過ぎない。でも、いつだって、予感とひらめきに導かれてやってきたのだ。

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