August 2008Archive

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重い映画とか重い話題とかの重さじゃない。体重計やキッチン秤で量れる重さのことだ。

美術作品がどれだけの重さかを気にする人はあんまり居ないだろう。それを気にするのは展示のために雇われたアルバイトや、自分で搬入する作家ぐらいのものだ。まあ、たまには引越しの為に作品を移動する必要に迫られたコレクターなんかも含まれたりするだろう。

しかし実際には、作品の重さはその表現形式や流通や価値に対して決定的な影響を及ぼしている。重くなるために実現できない作品がどれだけあるかを作家の立場に立って想像してみるといい。20kgの作品は作るのに大きな支障は無いだろうが、200kgの作品を作るのは覚悟が要る。2tの作品ならなおさらだ。逆に言えば、2万tの作品を作れば、それだけで作品として成立するかもしれない。惑星の重さは知らないけど、200億tぐらいあれば、存在しているだけでとんでもない影響をあらゆるものに与えることが出来るだろう。

コンピュータが普及することで、絵を描く人が増えたかどうかは知らないが、描かれた絵は圧倒的に増えただろうと思う。それは日記が大量生産されるようになったのと同じだ。その理由の一つには(あくまでも要素の一つに過ぎないが)、重さが無視していいほどになったということが強く影響している。壁画が移動可能なキャンバスなったり、立派な大理石の等身大以上もある彫像ではなく、小さな精密な彫像が作られたりしてきた歴史にも、重さはしっかりと関係している。

ちなみに、自分が今まで作ってきた作品の重さを考えてみると、絵や立体だけなら多めに見積もっても200か300kgぐらいなんじゃないかと思うが、これに装丁をした本だのデザインしたバイクだの、パッケージされたゲームだのを加えると一気に膨れ上がる。軽く10倍ぐらいになるんじゃないだろうか。ちょっとウンザリするな。これが彫刻家や建築家だったりしたらさらに10倍、100倍となっていくわけだ。

美術作品でなければ話はもっとわかりやすくなる。たとえば、かつての実用車と言われる自転車は30kg近くあった。重い自転車を漕ぐということは、それだけ多くの体力を消耗するということだ。平坦な道なら丈夫で良い自転車で済ますことが出来るかもしれないが、その自転車で坂を上るということは、30kgをペダルの回転で引き上げるということだ。押して歩くのでさえとんでもない労力を強いられる。現在最も軽い自転車は3kg後半だ。やりすぎな軽量化ではあるかもしれないが、それでも坂を上るのに充分な耐久性と機能を備えている。

つまり個人に寄り添うものは軽さを求める。作家が重いものを作れないのは単純に自分ひとりの力では実現が難しいからだ。自動車が重くても許されたのは燃料なんていくらでもあると思われていたからだ。極論するなら、権力は重いものを求めるが、自由は軽いものを求めるということなんだと思う。だから、権力を持つ個人は重いものを求めるだろう。権力を持たない個人は軽いものを求めるだろう。もしくは権力を誇示できるところでは重いものを求めるだろう(例えば家だ)。権力が関係しないところでは軽いものを求めるだろう(たとえば冬のフリースだ)。

ところで軽さと耐久性は基本的にトレードオフだと思われているが、必ずしもそうではない。耐久性を損なうことなく軽く出来る要素はいくらでも残されている、というより、美術作品がそうであるように軽さが重要な価値となったことのないモノの方が遥かに多いんじゃないかと思う。例えば家電なんて重すぎて呆れる。ちょっと前のニュースで大型冷蔵庫に使われている鉄板の重さが書いてあって、20kgだったか40kgだったか忘れたけど、あの大きさでなぜそれほどの鉄板が必要なのか理解に苦しんだ。自分が持ち上げられない家電なんて欲しくない。100kgのテレビなんて要らない。

真剣に軽さを求めているのは機材スポーツの世界とモバイル機器ぐらいのものだ(乗り物業界はモータースポーツじゃなくてもそこそこ健闘してるけど)。とりあえず地球上に暮らしている限りは誰も重力から逃れることは出来ない訳だから、権力を捨てることでどんだけの軽量化が出来るのかを試したっていいと思うのだ。それは家具の価値観や収納や動線を変えるだろう。建築の工法や土地の概念を変えるだろう。料理の調理場所や調理方法を変えるだろう。そしてもちろん美術の形式や流通や所有形態も変えるだろう。

関連:メンテナンスの価値

080825-1.jpg080825-2.jpg絵を描くのにかかる時間なんてどうでもいい事だ。10分で仕上げようが、何年かかろうがどうでもいい事だ。逆にどれだけの時間が掛かっているかを気にしながら良い絵なんて描けない。良い絵が描けている時は、時間は流れるように流れるだけだ。良い絵は時間の外側で描かれる。

という前提の上での描画時間だ。二つ前のエントリーでも少し触れているが、速く描けるようになりたいのである。絵をツールにしてしまいたいとさえ思っている身としてはスピードは重要なのである。スピードが遅いために実現できないことは沢山ある。そしてそれらはスピードが速ければ実現できるだろう。例えば漫画、映画、ゲームなんかだ。あるいは一枚絵だとしても、スピードによって描かれる絵は変わるはずだ。しかし遅いことが悪いことだとはこれっぽっちも思わない。それはむしろ資質の問題だ。速く描けないなら、速く描けないなりのやり方を見出せばいいだけのことだ。

単純な比較の話で言えば、自分の描画スピードは遅いほうではないと思う。でも無駄が多いのも事実だ。理由は大体わかっている。一つにはわかりきったことを描こうとしないからだ。わけのわからないものから始める。手探りで形を出していく。手探りで色を探していく。もちろんこういう描き方でもスピードが出せる描き方もある。しかしこれをリアリズムに近い形でやろうとすると物凄く時間が掛かるのだ。それは単純に描かなければいけないディテールが増えるからでもあるし、描こうとする対象自体をデザインし直すような作業も含まれてくるからだ。ここでこだわりだすとキリの無い泥沼がようこそとお待ちかねなわけだ、しかし作りたいものが、誰かに撮られた写真や描かれた作品でない以上、これを止める訳にはいかない。だから出来ることといえば、増えたディテールの処理を最終結果に照らし合わせることで、最小限の手間で実現することぐらいだろう。要は3Dレンダリングで隠れたポリゴンのレンダリングをパスするようなものだ。とはいえ、対象のリデザインがエキサイティングなものだったりすると、これも難しくなったりするんだけどね。

もう一つの理由は、個人的に、達者な線や、論理的な認識を意識的に避けてきたというのも大きい。達者な線や論理的な認識は、確かにスピードアップには物凄く有効だ。見栄えもいい。だけどこれにハマってしまうと肝心なところを飛び越えてしまうという罠が待っている。見栄えの良さに酔ってしまうのだ。これは頂けない。でもこれをコントロールして味方にできるならば、それは悪くないかもしれないと最近思い始めた。大昔の日本画(とりあえず江戸時代以前)の人とかはとても良くコントロールしてる。あんだけ上手いのに。カッコつけてる内はろくなもんじゃないって事だな。

目標描画時間三分の一。いや、せめて半分。

画像は自転車のブレーキのためのアイデアスケッチ。
描画時間各30分程。電車の中で描いた。思考ツールとしての絵。

いまさらだけど周防正行監督の「それでもボクはやってない」を見た。そんで掴まれまくってしまった。

気持ちのどっかで、面白いんだろうし、まじめに作ってあるんだろうし、見て損はないんだろうし、でも別に、って思っていた映画だった。だいたい裁判ネタとか、権力絡みとかは苦手なのだ。なぜなら、舞台として、あるいは小道具として利用されるだけで、それらの嘘くささが棚上げされるから。でもこの映画は違った。

とっても偏見に満ちているかもしれない第一の感想は「社会は作文で出来ているんだな」ということだ。それがネチネチと余すところ無く描かれている。素晴らしすぎて嫌になりまくる。丁寧すぎて開いた口がふさがらなくなる。。

社会はどこまでいっても作文だ。ヤクザのハッタリでも、先生の講義でも、法律でも、友達同士の会話でも、愛の囁きでも、そしてもちろん裁判官の判決でも、権力(暴力、もしくは仮想的借り物サイドの力)を持つように編集された言葉は、その時点で全て作文になってしまうのだ。そしてその作文は論理的でなくてはならない。一体いつからそんなに論理的であることが力を持ったのか不思議でしょうがないんだけど、つうか詩的な法廷とか、歌うヤクザとか、勝手につぶやくだけの先生とか、参照するに値しないぐらい頻繁に書き換えられ続ける法律とか、まあ、そんなものは役に立たないにしろ、いやむしろ、役に立たないものであって欲しいんだが、とんでもないぜ、いかに社会が作文かを見せてやるぜ、って心意気を感じたのである。

気持ちを動かされた強度が最初の20分ぐらいから最後までずっと続いていた。何が自分を掴んだのかよくはわからないし、他の人がそんな風になるとはあまり思えないんだけど、少なくともその理由には、作文に対する怒りだけじゃなく、なぜ作文に至るのか、なぜ作文は現実に虚構を再生産するのかという視点がずっと寄り添っていたからだろうと思う。とてもいい映画だった。

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