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20080919: 表現における言葉について

「崖の上のポニョ」を観たんだけど、言葉が全体を台無しにしていると思った。アニメートされた映像は素晴らしいところが沢山あるのに、というより、見たことないようなレベルで圧倒的にアニメートされていてるのに、それを言葉や物語がとても陳腐に見せてしまっていてすごく残念だった。これは「もののけ姫」以降の宮崎アニメに対してずっと感じていることでもある。映像と言葉の間にどこか決定的な亀裂を感じる。

でも他人の作品をダシに使うのはフェアなやり方じゃないな。しかし連鎖なんてそんな風に起きるものでもあるし…まあいいや。

言葉は、言葉自体が時間軸を持っている。絵だって時間軸を持っているけど、ここではそれは無視。で、言葉を表現にするということは、意味だけでなく、この時間軸を含めて表現のうちに取り込むということだ。そうなって初めて言葉は表現になり得る。なぜなら言葉は、意味である前に音だからだ。つまり、音楽としての言葉が美しくなかったら、それは表現としては成り立っていないということだ。そして音楽と言ったけど、例えば小説にも音楽はある。それは文体や、流れる密度のメリハリに現れる。詩に比べれば音楽的純粋さは劣るにしろ、それもで紛れもなく音楽なんだと思う。もちろん音楽性のかけらも無いようなエンターテインメント文学がむさぼり読まれていたりもするわけだけど、それでもなお言語表現は音楽的時間軸の内にあるんだと思う。


これは今までにも何度か書いていることだけど、言葉が嫌いなのだ。全部の言葉が嫌いなわけじゃなく、音楽的でない言葉が嫌いなのだ。表現物かどうかに関わらず。

自分にとって美しいということは、身体的であるということだ。グロいとかエロいとか残酷とか優しいとか下品とか上品とかゴージャスとか清楚とか貧相とかリッチとか重いとか軽いとか冗長とかシンプルとかそんなことは美しさにとってどうだっていいのだ。どんな風であっても構わないのだ。身体的でありさえすれば。だからここで言っている「音楽的」であるということの意味は音楽のようであるという意味ではなく、音楽の身体性を指したいと思っているわけだ。

音楽の身体性なんて言うと、また小難しく聞こえるかもしれないけど、要は歌った時や踊った時に、音楽という表現物をガイドとして、潜るなり登るなり移動するなり出来るかどうかということだ。そこで、潜ることも踊ることも移動することも出来ずに、脳みその一部分ばかりが刺激されるようなものはつまらないことだと思うのだ。

意味は人を停滞させる。だから意味自体が流動的でなくてはいけないんだと思う。意味から始めちゃいけないんだと思う。なぜなら意味は後から生まれた道具に過ぎないからなんだろう。

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Comment(3)

ああああーーーーーーヤバい超わかります
頭が若干弱いので
どう伝えたら良いのかわかりませんが
これはもの凄いわかります。

空気にとけ込む言葉というかなんというか。
ただ現実の世界では言葉は騒音のようだったり
する時もあるけれど、
それはそれで"自然"なわけで
一つのシチュエーションに対してのBGMになっている。

どちらにしても流れを無視して一人の人間の意図が
必要以上に注がれ過ぎると、
書いてる本人以外にそれは違和感にしか感じられないんだと思います。

言葉を聞いて絵を見ているっていう感じで
脳が一つの作品と認識出来ないような。

絵に声や音を乗せるっていう二次元的な感覚ではなくて
その空間にあてはまるものを入れてやる、
っていう三次元的な感覚が
ベストなのかなあ、と思ったり。

違うか!(最後の最後に自信無い

つかポニョ見てないし!
ではまた!(逃

まさにそんな感じ。映画にはその三次元的な感覚が絶対必要だと思う。宮崎駿は日本でそれが出来る数少ない人の一人だと思っているんですけどね。

ポニョは、言うほど悪くはなかったんだけど、嵐と洪水をもっと前面に出せばもっともっと良かったなぁと。説明だの、納得だの、ふれあいだのいらないから、って思った。

言えてるー
ポニョはいっそ無声映画で(もっと短くても)いい内容だと思った。
つうかもうもののけ以前に戻ることはないだろうから、今後はもっと個人に割り切って欲しい。
でももう一回見たくなる絵力。

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