November 2008Archive

今日は家のことについて文章を書いてみようと思ったのだが、あまりにも曖昧なことや困難なことがあり過ぎて、書く前からめげそうになってます。

つまりワタクシには以下のような欲求と課題があります。

1:大家さんから引越しを要求されている
2:住みたいような家はほとんどない
3:住みたいような家があっても買うことも借りることも出来ない
4:自分で家を作りたいと思っている
5:どうせ作るなら自分で考えた家を作ってみたい
6:自分で考えるには何も知らなさ過ぎる
7:作りたい家は軽くてメンテナンスの楽な家である
8:分解と移動が出来ればなお良い
9:世帯や生活形態によってユニットの組み換えが出来ると良い
10:広い作業場は欲しいが広い居住空間である必要は無い

これらの要求を満たす家に近い例はジャパンドームハウスのユニットドームやアメリカなどで利用されているトレーラーハウスなどがあります。アウトドア用のテントなどは耐久性を除けば、ほぼ完璧に要求を満たしています。日本の分譲住宅なども、ある意味工事現場などで組み立てられるプレハブ建築と何も変わらないという工法から見ると、実は要求に応じて組み替え可能なユニットハウスと見る事も出来ます。そこに住んでいる人は誰も自分の家をプレハブ建築だとは思っていないかもしれませんが、軸組みなどの在来工法で作られていないほとんどの住宅はプレハブ建築です。

これらのことから考えられるのは

1:構造を構成するパーツがある程度規格化されている
2:部屋に準ずるようなユニットが組み替え可能
3:軽量化を最優先するなら外壁に皮膜構造を採用する
4:もしくはアルミやカーボンなどのパネルユニットを採用する
5:部材の単位を個人で扱えるようにある程度細分化
6:地面に永続的に固定化するような基礎を必要としない

というようなことです。しかしまだヴィジョンが見えてこない。それはおそらく素材と工法のガイドラインが見えないからです。絵に描けるぐらいのイメージならなんとなく掴めるんですが…

そんなわけで、昨日は以前紹介した犬のしっぽブログの人のテンセグリティ・シェルターのプロトタイプが見られるということで青山のスパイラルで開かれているDO MORE WITH LESS 40 YEARS OF THE NORTH FACEに行ってきました。
テンセグリティ・シェルター.jpg


この大きさのドーム(外側の黒い方)で、構造材の重さは30kg程だそうです。素晴らしく軽い。圧縮材に使われているカーボンの帯板は東レから提供されたものだそうです。触ってもいいというので押したり引いたりしてみると、思っていたよりもずっとテンションは低い。逆にこれぐらい柔軟な方が強風などには強いのかもしれない。説明員の人にナイロン素材の耐久性やポリカーボネートの可能性や接着剤の進化についてなど、訳のわからない質問をしながら1時間ぐらい眺めてきました。

さて、どうすっかな。とりあえずは、つまらない借家を探すしかなさそうですが。ガルクラフト代表の手に入れたトレーラーハウスが羨ましいこの頃。
081130.jpg

関連リンク:
テンセグリティ・プリセッション
ダイナテクチャー
SlelfBuild DomeHouse Site

081128.jpg手書きブログで。他にも後2枚ぐらい。自転車の写真は雨で乗れず断念。これから晴れるのかな。

俺はどうも多くの人から耽美主義者だと思われているようだ。
で、そもそも耽美主義者ってものがどんな風に定義されているのかを知らなかったので調べてみると、あらゆる価値に先んじて美を最優先する立場なのだと説明されている。ウィキペディアなら「道徳功利性を廃して美の享受・形成に最高の価値を置く西欧の芸術思潮である」と書いてある

うーん、この言葉ヅラの定義で言えば確かに俺は耽美主義者だ。でも納得いかねぇ。だったら美の定義はどうなのよってことになる。だいたい俺は耽美主義といわれているような作品は大嫌いなのだ。美しくない。酔ってる。酔ってどうすんだよ。酔っ払いを賛美してどうすんだよ、って常々思っていた。逆に利用価値の高いマスメディア的な有りもしない大衆性しか感じないのだ、そういう作品からは。それが美を最優先していることだとは思えないのだ。別に美とか言いたくねぇんですけど、つか、どうでもいいんですけど、とにかくどんなものであれ閉じたものが好きくないのです。だから別に耽美主義者と言われてもいいんですけど、一緒くたにされるとちょびっと悲しくなったりもするのです。

美しいと自分が感じることは、常に新しく、常に古いことです。その両方を持っていることでなくてはならないと思っているんです。そういうときに「美しい」という形容詞を使いたい。今、目の前にあるようにある、それ以外ではありえないようにある、そういうときに美しいと言いたい。だいたいが美しいなんて普段誰も使わないでしょ?それぐらいレアな表現だし、それでいい。そうでないなら、美しいということと臭いということの違いなんてどこにも無い。美しいということと嘘つきの違いなんでどこにも無い。つまり美しいなんてわざわざ形容する必要なんて無い。俺の中の耽美主義という表現のイメージは古さに、つまりノスタルジーに偏っているイメージがあり過ぎるのです。耽ってどうするのかと。耽っている暇があるなら餌とってこいよと。表現者の身体性を伴わない表現なんてマジクソだと思う。

081127.jpgやっと買い貯めたり、改造していたりした、自転車の部品が組みつけられる準備が出来たので、きのうからずっと自転車をいじっていました。おかげで更新はサボりまくり。何とか走れる状態に漕ぎ付けたので、明日試乗しにいくつもりです。とても楽しみ。完成写真(といってもまだ仮組み状態ですが)は明日アップしよう。

基本的にのめり込みすぎるたちです。オートバイもゲームも、それで結局デザインしたり監督するとこまで行っちゃったりする。自転車も既にヤバい域に達しています。もう性分なので自分ではあきらめてますが、周りはいい迷惑です。知ってます。すみません。

ところで自転車のことを考えていて思ったんですけど、現在のテクノロジーって中庸に対しては全く真剣さが足りないんですよね。自転車で言うと極端な話ママチャリとレーサーしかない。そこでレーサーのスペックを持ったママチャリがあったっていいと思うんだけどそんなものは存在しないわけです。自転車は軽ければ軽いほど楽に走ることが出来るんですが、ママチャリってのは16kgとか18kgぐらいの重さです。ロードレーサーなら市販車でも9kgとか8kgとかで、最も軽い自転車だと4kg以下です。この重さが例えば坂を上るとき、そして加速する時に足の負担として掛かる。18kgの自転車で坂を上るということは、その重さをペダルの回転で持ち上げるということです。つまりロードレーサーで坂を上ることに比べると、10kgの米を積んで登るのと同じぐらいの負担が足に掛かるわけです。この米を降ろせば今まで登れなかったような坂が登れちゃうなんてことも起きる。だからママチャリだって軽いほうがいいに決まっているわけです。で、なぜママチャリが重いままでいいかというと値段ががネックなわけです。ただそれだけ。自転車なんかに10万円とか100万円も出せないと。

しかもこれは自転車だけの話しじゃないわけで、服にもヤカンにもフライパンにも家にも言える。特に家なんてのは極端な話ハイテクテント(これが自転車のレーサーポジション)と伝統とデザイン(機能を限定した上での遊び、もしくは言語的な解釈の押し付け、もしくは極端な単純化、もしくは過剰な複雑化、もしくは新しさの幻想。これもある意味レーサーポジション)しかない。極端が魅力的なのはわかる。冒険はワクワクするし、羨ましがられ憧れられるのは気持ちがいいだろう。とりあえずは。でもそれだけじゃやっていけないところにママチャリや住宅があるわけで、それがクソ重かったり非合理的だったりするのはとっても納得がいかない。なんでもっとシンプルに要求を汲み上げないのか。と思う。

そんなわけで俺の自転車は軽くて気兼ねなくてラクチンで遠くに行ける自転車を目指しています。現在の重量はは8.4kgぐらい。このコンセプトでもお金を使えば6kgを余裕で切れるけど、そこまで無理しなくても充分快適になれるだろうと思っています。タイムトライアルには全く向かないけど、競わないけれども楽だということを追求したらどんな形になるのかを見てみたいのです。

04:12
楽になりたいならエンジンをつければいいんじゃない?っていうのはこれまでの方法論。エンジンをつけるという事は、自分の体にとってどうかということを無視することになってしまう。俺が欲しいのは漕がなくてもいいということではなく、気持ち良く漕げるということなのだ。漕ぎ続けられるということなのだ。そしてエンジンをつけるという事は社会に対する依存を決定的に増大させる事でもある(税金、免許、メンテナンス、法律、出力という暴力、忘れてしまう重量、マジョリティであるという嘘、消費され続ける燃料)。問題なのは素っ裸の身体とマシンのコミュニケーションなのだ。自転車が変われば、おそらく自動車も変わるだろう。ちなみにいわゆるエコには興味がない。そこには嘘しか見えない。

081124.jpg自転車の部品を買いに御徒町へ。でも夜勤明けで時間が早かったので、時間つぶしにまず上野公園を一周。

相変わらずいろんな展示をやっている。フェルメール展はちょっと見たいような気もするが、見ないと死ぬって程のものでもない。それよりも「西洋美術館を世界遺産に」っていうノボリがそこら中に立っていることのほうが驚いた。もうなんでも世界遺産だな。俺だったら西洋美術館じゃなくてアメ横を世界遺産にするよ。

その後ドトールで窓際の席に陣取り、コーヒーとジャーマンドッグを食いながら自転車のサドルなどを落書き。すると目の前を鳩が歩いている。寝て無いせいもあって、やけに鳩がリアルに見える。車に轢かれそうになろうが、人に踏みつけられそうになろうが、驚く風でも無く平然と首を前後に揺らしながら移動する鳩。どう考えたっておかしいだろ、お前。とか突っ込みを入れるが、鳩に聞こえるわけも無い。

そんなことをしているうちにやっと午前11時の開店時間がやってくる。チューブ、コラムスペーサー、壊れた空気入れのパッキンなどを購入し新製品を一通りチェック。驚くような製品は無い。というか欲しい物や見たいものはお店には売ってない様な物ばかりなのである。それに買えもしないようなものでもある。

目的は果たしたのでアメ横へ。まだ午前中なのにやけに人出が多い。ガード下などには入らずにセンタービルの地下食品売り場などを覗く。そして急にキムチを買って帰ろうと思い立つ。このところ唯一のマトモな味だったキムチが駅ビルから消えてしまい、近所のスーパーに行くたびに不味いとわかっているキムチを買うべきかどうか悩むという悲しい思いをしていたので、ここならマトモなキムチが売っているかもしれないと思ったのだ。しかし地下食品売り場には韓国食材を売っている店はあるのにキムチは売ってなかったので、また地上に戻る。売ってる、売ってる。何軒かをウロウロして、日本人に媚びて無さそうなキムチを物色。一番地味な店のものを買う。ついでにチャンジャも。雨も降り出し、ここらで退散。特急電車に飛び乗り一路帰宅。もちろんキムチは大当たりでした。めでたし、めでたし。

近頃インターネットに対してなんとなくムカついている。理由はとてもはっきりしている。いろんなツールを使って下り側を加速させたからだ。だから正確に言えば、別にインターネットに対してムカついているわけではなく、上りと下りのズレが許容範囲を超えている事態に自分自身で進んで飛び込んでおきながら混乱している自分にムカついているのである。アホは俺だった。ごめんなさい。

でもそこで知りたいことがあったんだからしょうがない。やってみなきゃわからない。そんでそれをやるってことは、傍観者として分析することなんかじゃなく、まんまと嵌められてむさぼりつくすようにやらないとやったことにはならない。少なくとも俺の場合。ゲームでレアアイテムを手に入れるために費やした時間とか考えると、自分でもバカじゃないかとしか言いようがない。どんなに贔屓目に見ても、そこにポジティブな意味なんて見出せないぐらいの不毛な時間だ。

おそらく知りたいことは、不毛な時間に向かわせる欲望なのだ。不毛だとわかっていてもそれを求める理由なのだ。

例えばネットワークゲームをやっていて、いくらそこで金を稼いでも、そんなのゲーム上の金に過ぎないじゃないかとか、ゲームキャラクターに好きな人が出来ても、そんなのただの2次元じゃないかとか、そういうことを言ってられる様な問題じゃないところまで既に来てしまっている。なぜなら現実もまた同じテクノロジーと同じルールを共有していて、株をやることとゲームをやることの違いなんてほんのちょっとの差でしかないように見える(株はやったことないけどね)。セックスにしたって、そもそも男の頭の中なんてものはヴァーチャルセックスと大して違いがないように現実のセックスの中でも乖離していたりもするのだ。

何が起きているのか。
意識が身体から浮遊しているんだと思う。浮遊することをテクノロジーが許しているんだと思う。誰もが望んでいるテクノロジーの方向の一つは、夢見るためのテクノロジーなんじゃないかと思える。乾燥機つき全自動洗濯機が、大画面液晶テレビが、インターネット決済が、生産システムの横型分業構造が、立体造形の自動化が、あらゆる身体性を補助するテクノロジーがそれを支えている。

『不毛であっても夢見ていたい。みんなが夢を求めるなら不毛であっても構わない。身体なんて要らない。あなたが私のことを見ていてくれるなら不毛のうちに死んでも構わない。むしろ死にたい。そうじゃないなら死んだ方がいい。そうだ私は夢の中に入れてもらえない。死んだ方がいいじゃん。私は夢から疎外されている。私の意識はこんなに浮遊しているのに、こんなに誰よりも夢見て、こんなに身体から切り離されているのに、なぜあなたにはそれがわからないのか。あなたの夢が私には見えない。あなたはみんなの夢に属している。あなたの浮遊は幸せそう。私の浮遊は死んだ方がいい』

っていう、自家中毒的浮遊ループがそこに発生する。
たぶん身体を失った意識が、判断基準であった身体性の代わりに見出すものが、同じように身体性を失った他者の浮遊する意識であるときに、このループが生まれる。これは嘘つきの始まりだ。あまりにも柔らかい嘘だ。柔らかすぎて嘘でさえないのかもしれないけど。

俺は意識の錨をもっと自分の身体に降ろすように努力しよう。

03:54
おそらく社会そのものが浮遊している。
浮遊するデストピア。
浮遊する淀み。
社会も身体性を失っているのだ。

かつて浮遊することは
淀みではなく破裂する奇跡のような経験であったのかもしれない
死をもってしか経験することが出来ないよう希望であったかもしれない
夢見ることの究極のような多幸感を伴う経験であったかもしれない

しかしいまや、浮遊する意識はつまらない日常に過ぎない。

落ち葉が パキパキ カリカリと

アスファルトの道路を飛んでいく季節

空気はひんやり冷たいくせに

やけに太陽のまぶしい朝で

その光をまぶたの裏から見ようとして眼をとじる


すると体は一瞬で沈黙に包まれ

自分の体が丸くて黒い影になったような気がしてしまう

でもその影は怖いけれども暖かくて

それが光を感じることだ納得する

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