何かに憑依されている状態に自分を保ちたいといつも思っている。そうでない自分は自分じゃない気がしてしまう。普通は逆だ。憑依されている状態が異常で、憑依されていない状態が正常。
その違いはおそらく理性の解釈が違うからなんだろうと思う。俺にとって理性は憑依されている状態の中にしかない。憑依されている状態で、その時間軸を含んだ空間を生きるために理性が必要とされるのだ。そしてそれ以外の理性なんてものはただの日常的習慣のようにしか思えないのだ。
山の中で熊を射止めようとする猟師は、憑依されていないとそれを上手く成し遂げることが出来ないだろう。そこに何が憑依しているのかは今はどうでもいい。
自分にとって生きるということは、常に憑依されている側に天秤を傾けておくことだ。そっち側に、もう一方よりも常に深く足を突っ込んでおくことだ。そうじゃなくなってしまう時には危険信号が発せられる。ヤバイ、引き返せと。
人は常に何かの奴隷だ。そして奴隷でなんの問題があるだろう。奴隷になってナンボだ。問題にされるべきは何の奴隷になるかなのだ。
モノを作るということはシャーマンになるということだ。シャーマンは「外部」を降ろす。シャーマンは「外部」の奴隷だ。そしてそれこそが快楽の正体なのだ。人は鏡になることを望む。その鏡は自我を相対化する。その時、俺の目は奴隷としての俺を美しいものとして眺める。
ゲームは奴隷であることの価値を教えてくれる。ゲームの快楽は奴隷の快楽だ。そこではゲームに勝つということも、隠されたすべての手順を暴くことも、ルールという王の下にひれ伏すことになる。そこにはマゾヒストとサディストの関係が一時的に成立するが、ゲームがゲームである以上は学習という幼児期に含まれるのだ。王は全てを含んでいなくてはならない。血も、痛みも、恐怖も、怯えも、嘘も。「自分ではない全て」がそこに含まれていなくてはならない。そしてその「自分ではない全て」に辿り着くためには経験する必要があるのだ。その全てを。
死が必ずしもその全てにはならない。その思いが宗教を作ったように思える。どのように死にたいかを誰もが考える。たぶん快楽のために。自分という肉体を消費するために。


昔は憑依しているもの自体の名前が、そのまま人の職業になったのだと思うのだ。だから、熊を射止めようとする猟師に憑依しているのは[マタギ]だな。
正解だろうか?
そう、それはマタギ以外の何者でもない。
何が昔と変わったのかといえば、職業がテクノロジー、もしくは分業によって細分化されてしまったがゆえに、職業という全体性が失われてしまったんだと思う。何度も言うけど、分業は否定しない。重要なのは分業が分業として分業以外ではないように明確であるということなんだろうな。
絵を描いているときに
憑依された状態が発揮する結果の凄みは
自分でもビックリするくらいだ。
それはもはや自分を超えているにもかかわらず
間違いなく自分の身体を通している実感。
アメリカの大統領選を観ていて
政治家になろうなんていう感覚は
そういった実感の対極にあるものだとばかり思っていたのが
少々覆ってしまった。
彼らの行動もまた、憑依されている。
現実世界という魅惑的なゲームに。
最近自分の中で幻想と現実の逆転が起きているような気がする。これは定義の話で、錯乱の話ではない。つまり、現実世界といわれているものこそが幻想であって、幻想といわれていたものが現実なんじゃないかということ。逆転しまくっていてわかり難いと思うけど、幻想といわれていたものに含まれる身体性にこそ「現実」があり、現実世界は言語的幻想によって成立しているように見える。政治というゲームの魅力は、それがまさに学習装置としてのゲームであるからこそ魅力的に見えるんじゃないかと。そしてそんなゲームで人が死んだり死んだり死んだり、も、してしまう。ゲームだと言い切ったところで何も変わらないもどかしさ。