俺はどうも多くの人から耽美主義者だと思われているようだ。
で、そもそも耽美主義者ってものがどんな風に定義されているのかを知らなかったので調べてみると、あらゆる価値に先んじて美を最優先する立場なのだと説明されている。ウィキペディアなら「道徳功利性を廃して美の享受・形成に最高の価値を置く西欧の芸術思潮である」と書いてある。
うーん、この言葉ヅラの定義で言えば確かに俺は耽美主義者だ。でも納得いかねぇ。だったら美の定義はどうなのよってことになる。だいたい俺は耽美主義といわれているような作品は大嫌いなのだ。美しくない。酔ってる。酔ってどうすんだよ。酔っ払いを賛美してどうすんだよ、って常々思っていた。逆に利用価値の高いマスメディア的な有りもしない大衆性しか感じないのだ、そういう作品からは。それが美を最優先していることだとは思えないのだ。別に美とか言いたくねぇんですけど、つか、どうでもいいんですけど、とにかくどんなものであれ閉じたものが好きくないのです。だから別に耽美主義者と言われてもいいんですけど、一緒くたにされるとちょびっと悲しくなったりもするのです。
美しいと自分が感じることは、常に新しく、常に古いことです。その両方を持っていることでなくてはならないと思っているんです。そういうときに「美しい」という形容詞を使いたい。今、目の前にあるようにある、それ以外ではありえないようにある、そういうときに美しいと言いたい。だいたいが美しいなんて普段誰も使わないでしょ?それぐらいレアな表現だし、それでいい。そうでないなら、美しいということと臭いということの違いなんてどこにも無い。美しいということと嘘つきの違いなんでどこにも無い。つまり美しいなんてわざわざ形容する必要なんて無い。俺の中の耽美主義という表現のイメージは古さに、つまりノスタルジーに偏っているイメージがあり過ぎるのです。耽ってどうするのかと。耽っている暇があるなら餌とってこいよと。表現者の身体性を伴わない表現なんてマジクソだと思う。


はじめまして。
hisaと申します。
「エロい」で検索をかけましたところ、ここに不時着しました。
そして今、「よかった」と心底「耽」っております。
「美とは、新しく、そして、古く、その両刀を有するもの」との御指摘、私は(勝手ながら)「美とは極である」と解釈いたしました。
それは「北極と南極」であれ、「プラスとマイナス」、あるいは、「美と醜」でもいいのですけれど、何か超絶的なものでなくてはイカンと自分は思っています。到達できない絶対的なものでなくては、と。
しかし、その考えでいきますと、美とはどうしても観念的なものにしかなりえず、
「花の美しさなんてねーよ、美しい花があるだけなんだよ」
という小林秀雄の言葉も脳内処理されるに止まり、体中にその「血」がめぐることはありません。
つまり、何が言いたいかと申しますと、自分は(まだ)表現者ではなく、リングサイドから野次を投げる観客の一匹に過ぎないということです。
だから、耽るんです。
呑まれちゃうんです。
で、それは気持ちいいんです。
でも、それじゃ表現者にはなれんのです。
「身体」でもって「獲物」を捕まえに行かなきゃ。
その過程で獲物(美)に食い殺されるのなら、それこそホントの意味での「耽美主義」かも。
そう思ったのでした。