December 2008Archive

08123101.jpg08123102.jpgあっという間に大晦日。年賀状も結局間に合わずこれから描くという予想通りの展開です、わはは。たぶん投函は一月三日とかですかね。まあ、いつも通りです。

関東地方は年末年始はずっと天気がいいみたいですね。嬉しい。仕事たまってるけど、元旦だけは酒飲んで遊びに行こう。写真は昨日の朝に出かけたお散歩の時に撮ったもの。江戸川の川面と三郷公園です。年末ぽいと勝手に思ってます。

今年はサイトを作り直して、久しぶりにネット復帰したってのが割と大きかったです。デジタル技術とかその利用法について、昔グダグダと書いていたようなことが、かなり実現もして、これからさらに本格的に変わっていくんだなぁ、てなことをひしひしと感じます。悪いニュースが多いけど、その変化はモノを作る人間にとっても、それを利用する人にとっても、起きるべくして起きる良い変化であると思っています。だって、基本的には作る人と利用する人を直接結びつけるように変化しようとしているわけですからね。間に入っていた人は苦しいでしょうが、自分の場所に帰るという選択肢はいついかなる時でも残されているわけですから、痛みはあってもどうにかならないわけが無いと思ってます。

でもまあ、そんなに単純に行かないのはわかっているつもりですが、別に世界情勢の予測がしたいわけじゃないし、俺自身が元気なことが重要なんです。まずはそこから。そんなわけで作場は元気です。来年もよろしくお願いします。良いお年を。

タンブラーとかグーグルリーダーとか利用していると、インターネットも従前の意味での娯楽になったんだなぁ、と思った。

例えばもちろんテレビとの違いはある。スクロールさせないと動かないし、クリックしないと再生されない。でもテレビだってザッピングするためにボタンを押しまくり、その為にコントローラーを手放さないことを思えば、なんの違いも無い。

最小の身体的行為で流れる情報を切り替え、反射神経でコンテンツを渉猟する。それが娯楽だ。ゲームだ。自分の体が求める欲望をバーチャルな表現物に晒し、そこであたかも自分の体が生きているかのように錯覚できる感覚を求め、人はチャンネルを切り替え、映画館の椅子に座り、ページをめくり、コントローラーを操作し、クリックし、ひたすらスクロールするのだ。

そこで本人に起きている現実は、チャンネルを切り替え、映画館の椅子に座り、ページをめくり、コントローラーを操作し、クリックし、ひたすらスクロールしたことだけだ。だが、もちろん、そこで得られた情報によって、ジャンプしたり、大事な人が死んだり、使命を成し遂げたり、空を飛んだり、したように身体は反応するわけだ。

人は夢見る生き物だ。たぶん人じゃなくたって夢を見るだろう。たぶん夢見ることは必要なことなんだろう。必要だから夢をみるんだろう。でも、夢は必要なだけ見るべきなんだと思う。必要以上に見ちゃいけないんだと思う。夢に夢を持っちゃいけないんだと思う。

夢に夢を持たせるためのテクノロジーより、必要なだけ夢をみるためのテクノロジーの方が好きだ。

15:03
おそらく、必要な夢とは自分が見る夢のことだ。他人が見た夢ではなく。 俺が思う良い表現物はそのことに気づかせてくれる表現物だ。表現した人もそれを見た人も、その表現によって、それぞれの場所に帰っていくようにあるときにだけ、間に置かれた表現は救われる。そういう表現を見ると、俺は感謝の念に包まれる。あなたがいてくれてよかったと思う。孤独でも間違っていなくて、それこそが正しいことなんだと思える。

経済のことはよく知らない。
でも、誰もが可愛いと思う女の子が一人いれば、そこに経済効果が生まれるということは理解できる。同じように一台のカッコイイ自転車や、イカしたガジェットや、反則的な使い方をされた道具や、有り得ないように見えるダンスも、同じように経済効果を生むだろう。

こういうことは、直接的に経済に結びついているようには見えないかもしれない。むしろ消費側の側面として見えることだったりする。でもそれは違うんじゃないか。消費を消費と言わずに生産の一側面として捉えるなら、つまり、消費なんて行動は存在せず、あらゆる行動は生産であるという仮定に立てば、人が行うあらゆる振る舞いは随分と違って見えてくる。

きっちり化粧することも、自転車を磨き上げることも、クリスマスに家を電飾で飾り立てることも、それらは全て生産である。それを真似することも生産である。憧れている女の子と同じ口紅をつけるという意味での経済効果ではなく、憧れによって成された化粧は、その由来を飛び越えて現実に湧き出ているのだ。重要なのは自分の欲望において何事かが成されているということなのだ。そこではお金が動いているようには見えないかもしれないが、実は動いている。つまりそれらの個人的な消費活動として見られるようなことも、なにかしらを動かしているのだ。

統計に表れない効果、計算に入れられていない行為、把握されていない要素、参照するに値しないものとして切り捨てられている現象、そんなものが信じられないぐらい沢山あるんだと思える。

だから、統計はいつも疑ってしまう。計算の美しさには感心しても、その計算がなされた限定条件にはいつも疑問を持つ。切り取られた表現は部分でしかない。自分のことをとても天邪鬼だとは思うけど、表現し辛く、規定が難しく、統計することも出来無いようなものを大事にしたいといつも思うのだ。そしてそんなものはレアなことではなく、当たり前なのにそのようなものになってしまうからそう思うのだ。

07:30
しかし誰もが自分にとってこうあって欲しいという情報しか見えないように生きているし、俺もそうだし、このフィルターはどうにもならないなぁといつも思う。むしろ、そのフィルターは命綱なんであって、それの欠如なんて有り得ないとさえ思えるんだけど、そこさえも超えたいと思って沢山の人が情熱を燃やしているわけだよな。そんな世界は嫌いじゃないけど。

人の行動のほとんどは反射神経に支配されているように思う。
で、
その反射神経が何によって定義されたかと言えば
自分の生命に対する危機感だろう。

危機感を感じそれを学習した結果
考えること無しに対応できる反射神経が形作られる。

だとすれば
危機感の認識が深まれば
新たな反射神経がそれまでの反射神経に上書きされることも起きるだろう。
それが起きないことは健全ではない。

ネット上で失礼とかどうでもいいな
だって失礼もクソもないじゃん

挨拶は好きだけど
挨拶ってのは実体に向かってするものだ
言葉に対して挨拶するなんておかしい

つまり
ネット上では
言葉や引用や画像や音声や動画が
人格のように扱われているわけだ

不十分な情報に対して人格を与えるのは間違っている

人格なんて

その人の歩き方とか
困った時の言葉の淀みとか
上手く笑えない口の端とか
重心の扱いの上手い下手とか
歪んだり真っ直ぐだったりする骨格とか
運動が苦手だったり料理が苦手だったり片付けが苦手だったり
じゃなければ得意だったり

するような全部
でしかない

挨拶はそれらを含んだ全部に対して行われるのだ
例えば今日の朝の清掃局おじさんに対して

人は言葉やなんやから
あらゆる想像力を働かせる
その結果として
言葉に挨拶する
という結果が導き出される

でも
これほどまでに分断化された情報の入手が手軽になった時代は無く
それゆえの言葉への挨拶のようにしか見えないのだ
そこには混乱しか見えない

俺のコメント欄への返信がそっけないのはそういうわけだ

悲しみや寂しさや距離を埋めるための挨拶よりも
出会ったしまった事実を
良くも悪くも何とかする為の挨拶の方が一億倍も素晴らしい

1:Google Chromeで俺のサイトの日本語が表示されない。スタイルシートをいろいろいじっても改善されず。でも他のブラウザは全部表示されてるんだぜ?UTF-8がいけないのかなぁ、くそう。Chromeで来る人結構いるんだよなぁ。

2:Picasa3にアップデートされたら、2.5GBぐらいのデータベースが全部リセットされた。なんで?8時間ぐらい検索しても半分しか終わらず、何もかもがフリーズしまくる。13万枚ぐらいある俺の画像ファイルが多すぎますか?そうですか。Googleが嫌いになりそう。でもViwerはかなり便利だ。これだけインストールできればいいのに。

3:携帯電話の写真画像取り込みがウザ過ぎる。すぐに通信が切れてたかが30枚ぐらいの画像を取り込むのに何十分も掛かる。これは早いとこ外部メモリが使える携帯を買えってことなのか。気に入っているのに買い替えって悲しい。とか言いながらExilimケータイW63CAに傾いている俺。しかし移動の基本が自転車になるとやっぱり重いカメラなんて持てないな。いつも携帯電話で済ませちゃう。マイクロフォーサーズの一眼早く出ないかな。思わずトイデジに走りそうだよ。

4:自分のPCにスペック不足を感じる局面が増えてきたんだけど、そのほとんどが消費系アプリで嫌になる。つまり作る分にはそれほど不自由していないのだ。FlashだのViewrだのゲームでスペックが足りないとか思わされるのはすんごい不本意だ。なんか間違ってる。これって見方を変えればOSだのアプリケーションだのが成熟期に入ってきたって事なんだろうな。進化の方向が明らかにカジュアルになってきてる。本質的じゃない。しかしそれと同時に、ハイエンドPCを2000Wで駆動しないと出来ないようなゲームを作るような時代ではなくってきているというベクトルもある。ネットブックとか別にそれほど欲しくないけど(というより、それはモバイルデバイスの進化を待てばいいんじゃない?と思っている)、やっと要求の上限が見え始めたんだなというのはビシビシ感じる。テレビ見ないけど、見るならワンセグでも充分とか、そんな風になる、なるよなぁ。ハイビジョンでなくてもいいよ、みたいな。つかさ、メディアなんて本質的にはすべて二次情報なんだから、二次情報のクオリティなんてどうでもいいじゃん、って昔から思っているんだよな。Jpegの画質劣化とか、オーディオの再生クオリティとかどうでもいい。そこに必要なのは自分以外の誰かが一次情報を得て発信したということこそがリアルなんであって、それが他人に伝わるためには、物凄い低い品質であっても充分なのだ。おお、なんかいいこと言った気分。

08:05
それでも綺麗な方が嬉しいでしょ?
と、問われればイエスだ。
しかし、綺麗じゃないと悲しいでしょ?
と、問われればノーだ。

08122501.jpg08122502.jpg今日も朝から自転車でひとっ走り。埼玉県側から大回りで行ったので20kmコースです。下の写真は公園の外側を流れる水路にある、使われていない船着場。昔はうなぎでも獲っていたんだろうか。いつも気になる好きな場所。

さあ、今日も絵を描こう。年賀状まで辿り着けるかなぁ…08122503.jpg

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