←雇用の創出が理解できない 夢→

20081216: 時給換算

行為を正当化、もしくは批判するために、時給換算するということほどむなしいことは無い。
とか言いながら、もちろんそんなことはいつだってしているのだ。
そのむなしさを意識しつつも。

そのむなしさは、換算される値段によって変化するような問題ではない。
時給が百円だろうと十万円だろうと関係ないのだ。実は。そんな違いは媚びたゲームが提供してくれる達成感となんの違いも無い。

俺が欲しい自転車を得る為に費やした時間は、一般的なサラリーマンがその時給計算において、この世で最も高価な自転車を手に入れるために必要とする労働時間より遥かに多いことは明らかだ。そこで、その時間を、無駄な時間とするなんて有り得ない。なぜならどんなに高価な自転車も自分が欲しい自転車ではないからだ。

絵においては呆れるしかない。

社会的な所有に対する効率は問題にされても、それぞれの自分の人生に対する効率は問題にされ無さ過ぎている。自分の時間は社会的な効率からは遥かに隔たったところで営まれているのだ。それぐらい社会は幼さに特化している。肉体と肉体の学習を無視している。それを重要視することは甘さだとさえ思われている。

俺にはそれが社会の未熟さにしか思えないのだ。
やりたいことを他人のことを考えずにやっているんだから、時給が少なくてもガマンできるでしょ?とか、それはわかるけど、そんな風には社会は出来ていないから、とか、そんなことを言ってられる様なところじゃないところまで来てしまっているようにしか思えない。現在の生産体制の変化とか分業構造の見直しとかが進めば、そんなことあっさり否定されるようなことにしか思えない。まるで歴史が書き換えられるように。

ほんとに君の思っていることは効率がいいの?なぜそう思えるの?何のための効率なの?君の欲しい自転車はほんとに売っているの?君の見たい絵は外側にあるの?君が愛したいと思っていた人は目の前にいる人じゃなかったの?今日この朝に光を浴びているのは君じゃないの?俺の指は何を求めてキーボードを叩いているの?

Trackbacks(0)

Trackbacks URL: /1223

Comment

Powered by Movable Type

Profile

Archive

Feeds