2009年Archive

誰もが身体飛び越えたくて身体を無視する。羽が生えていたらよかったのに、とでも言いたいように、自分の身体を見ない。無視された体は悲しむ。そして、その悲しみに対して代償を要求してくる。それが病気であり故障であるのだ。痛みであるのだ。

身体は正直、って言うのは簡単。でもそれが言えることにはなんの意味も無い。そんなことは理解にはならない。もちろん身体は正直だ。だが重要なのは、どんな風に身体が正直なのかを感じることなのだ。

今年1年、俺は今までの人生でおそらく最も多く自転車を走らせた。そして今までの人生で最も多く金属を削った。その削られたカスを集めて山にしたら、ちょっと感動するぐらい削った。

なんでそんなことをするのだろう?その答えは判りきっている。それをしたいとずっと思っていたのだ。そんな風に身体の声が聞こえるように、多少は成長したのだ。そしてそれが嬉しくて愛おしいのだ。

たぶん、そうやって開放された身体は、今まで思っても見なかったような道を見せてくれるだろう。そのことを思うと、とてもワクワクする。そのワクワクは終わりと共にあるワクワクだ。それってどういうことかと言えば、終わりなんてものは、実は終わりじゃなく、フィクションがフィクションの中に収まるって事なのだ。フィクションから開放されることこそが、身体を飛び越えないってことなのだ。

だから、たとえ身体を飛び越えた代償として病気になり痛みに向き合わざるを得ないとしても、それがその当事者にとって、人生そのもののように感じられたとしても、それをフィクショナルだといえる場所に立てるということは凄く重要なのだ。

明日を生きられる勇気と共に

より良い絵を描きたいという欲望を、他人の評価基準が鈍らせる。
「これぐらいなら充分上手い絵だよね」とか「これ以上描いても意味無いよね、だって充分伝わるでしょ」とか、そんな気持ちが、描き手であるにもかかわらず、鑑賞者としての自分も同時に存在してるという、避けられない構造のかなかで正当化させられてしまうのだ。

しかし、それは他人ではなく、完全に自分の問題なのだ。自分の中に含まれている「自分社会」の問題なのだ。社会は個の中にこそ作られていて、おそらくはそこにしか存在しない幻想なのだ。そして、そんな個の連なりが、互いに牽制しあうテンションによって構築された構造物として集団が形成されているに過ぎないのだ。この構造に見られるような緊張関係が、今より少しでもほぐれるようなことがあれば、どれだけ人間のうちにしか存在しない「社会」が単純化されることだろう。

建築にこそ基礎への依存を減らすためのダウンフォースが必要なんじゃないだろうか?軽量建築なら、なおさらだ。軽い構造物は地震にはめちゃ強いが、風力には影響され易いわけだし、空力的にその問題が解決できるなら、半浮遊建築物が実現しそうな気がする。

メカニカルな表現が好きだ。
音楽しかり、絵画しかり、立体しかり、ダンスしかり。
その本質はおそらく正確さにあるんだろう。
正確さからは程遠い技術しか持っていないのにも関わらず。

正確なだけの表現が嫌いだ。
音楽しかり、絵画しかり、立体しかり、ダンスしかり。
なぜなら正確さは過去に属するからだ。
その気持ちが俺を設計図の上を飛び越えさせる。

だからメカニカルな正確さの指標に従いつつも
その軌道は正確さでは測れないメタレベルの運動に従っている事だろう。
深い谷が水の流れによって刻まれるように、
道はそのように刻まれていくのだ。

優しさも暴力
暴力は応力
応力に良いも悪いも無い
応力のバランスだけが問題なのに過ぎない
現在の応力に相応しい場にいられるように
身体の基本構造は作られているのだ、きっと
その基本構造を流動的に踊れるかどうかだけが問題なのだ

最適化という未来

適応という未来

新しくも古くも無く

先端でも終末でもなく

珍しくもありきたりでもなく

現在が現在である時にのみ出現する未来

収束と分散が交わる処

それが繰り返され続ける処

最初からあるのに見失われ続ける処

帰る場所ではなく本来の場所

支えるものを必要としない場所

時間と共にある

時間が時間を離脱する場所

長い間モノを作っていると、と言っても、自分では長い間モノを作っているなんて実感は大して持っていないのだけど、まあそれでもいろんな状態を経験したりする。自分から湧き出てくる意欲の喪失もその一つだ。

昔はコレが怖くてしょうがなかった。というより、今までコレが怖くなかったことなんて無い。人の創作意欲なんてものは、おそらく9割方は、憎しみだとか、喪失感だとかに基づいているものだ。だからこそ、ある病に侵されているときにはとんでもないテンションで眼を見張るような作品を作っていた作家が、そこに一定の充足が訪れたとたんに陳腐な作品を作り出したり、若い時には欲望にさいなまれつつ、道を見出そうとしてがむしゃらに走っていた人間が、ひとたび道に嵌ってしまうと輝きを失ってしまったりするのだ。

かと言って、そこに他人の幸せだの、崇高な理念だの、嘘っぱちの思想だのを持ってきて意欲の代用にするなんてのはもってのほかで、むしろ最低だとしか思えない。そんなものは口を満足させたいだけの人に任せておけばいい。

意欲が無いなら、意欲が無い状態を享受すればよいのだ。創作意欲は無くとも、食欲や性欲はあるわけだから、十分生き延びることは出来るわけだし、それでなんの問題があるのか。自分の仕事だったからといって、なぜ嘘をついてまで意欲のある状態を演じる必要があるのか。そしてその意欲の無い状態がもし死ぬまで続くとしても、それはそれででいいではないかと思う。

やるべきこと、やりたいこと、やらなければならないこと。そういう表面的な主体性の関わり具合による区分は、実は物凄く現代的な一過性の社会における区分なのであって、少しも本質的な区分ではない。やることやって、やらされたこともやって、やらなきゃいけないこともやって、やりたいこともやって、その動機や欲望の方向がどんなであれ、それをし続けるだけでいい。

その空白は、精神的な(もしくは肉体的な)サイクルの一つの局面に過ぎない。そして意欲の空白における外部の情報の何と豊穣なことか。その豊穣を見ないことは、なんてもったいないことだろう。

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